モリサワ文字文化フォーラム

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フォーラムレポート

第14回 - トーベ・ヤンソンとムーミンのあゆみ

2014年10月20日、株式会社モリサワは、第14回モリサワ文字文化フォーラム「トーベ・ヤンソンとムーミンのあゆみ」を開催し、モリサワ本社4F大ホールでは約180名、東京会場では約180名の、幅広い層の方々にご参加いただきました。
今秋から日本巡回の「トーベ・ヤンソン~ムーミンと生きる~」展の総合キュレーターであり、トーべ・ヤンソン生誕100周年記念「ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン」の著者である、トゥーラ・カルヤライネン氏をお招きし、約1時間のフォーラムとなりました。本公演は同時通訳で行い、東京会場へ同時中継されました。

大きな拍手の中、赤いフレームが印象的な、素敵な女性が登壇。「ありがとうございます。日本に来ることができ、みなさんにお話しできることを嬉しく思います。私は、何度も何度も来日しているので、半分は日本人かもしれない。」と本日の講師、トゥーラ・カルヤライネン氏が、にこやかに、テンポの良い英語で、ご挨拶。
約4年間トーベ・ヤンソンと共に生活してきた という氏は、そういった経緯から本を書き、キュレーターにもなった。トーベが暮らしたアパートは現在もそのまま残り、トーベが人生や作品について書き記した多大な書簡、日記などが残されているという。氏は、これらを深く調査、研究し、初の評伝となる『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』の執筆にあたったのだ。

才能豊かな女性、トーベ・ヤンソン

トゥーラ・カルヤライネン氏

トーベは、6人も7人もの人格のアーティストが凝縮している と感じられるほど、多彩な側面を持ち、実は、そのことに本人自身が最も苦労していたという。最初にスクリーンに映されたのは、アトリエで下塗りをほどこすトーベの写真。50年代に弟ペル・ウロフ・ヤンセンが撮影したものだ。これは、トーベ自身が世間にどのように知って欲しかったかを表すものだ、と氏は解説する。トーベは、画家・美術家・アーティストとして見られたかった。父は彫刻家、母は挿絵画家であり、家計を支えながらもフィンランドの切手を多くデザインしていることからトーベは「切手の母」ともいわれている。トーベの身の回りには、常にアートがあったのだ。

スクリーンには、トーベ自身とムーミンファミリーを描いたイラストが映された。トーベ自身もムーミンファミリーが大好きで、こよなく愛していたが、他の才能の部分には影を落としていたと感じることがある、と氏は話す。トーベの、線を描く天才的な才能、指先から完璧なカタチで出てくる、あのような線を描く人は、他にはいない。ムーミン谷が愛される理由に、線の美しさがある と絶賛。歩き出す前から絵を描き、絵が上手だったトーベが、母親の膝の上でお絵かきをしている写真を紹介。次に、トーベの14歳の頃の作品、子ども向けの本『SARA OCH PELLE』と、聖書のお話『julen korven(クリスマスソーセージ)』を紹介、主流の考えに反するトーベの風刺とユーモアのセンスについてを氏は語る。

家族を愛し、芸術家を志したトーベ・ヤンソン

続いてトーベの絵画作品が紹介される。14歳の自画像、家族の肖像、弟の肖像。そして、アトリエで母親とひとつの明かりの下で読書をする写真。トーベにとって母親はとても重要な存在で、いかに母を愛していたかがわかるものが多く残っている。ストックホルムでは母の母校で絵を学び、その後は父の母校でも学び、パリに行って勉強を続けた。キャンパスの前に立つトーベの写真には彼女の「画家になりたい」という強い思いが溢れている。当時の作品はシュールレアリズムの素晴らしい作品で、何が起こるかわからないおとぎ話の要素があり、予測のつかない絵だ、と数点を紹介。また、20代半ばの、たばこを吸う自画像を紹介。彼女は、14、5歳でヨーロッパを一人で旅する勇気のある人で、戦争中もいろいろな展覧会に出品しているが、この絵は、実際に売れた初期の絵として、とても重要だそうだ。友人への手紙に、「買ってくれたのはヘルシンキの男性で、売れたことがとても嬉しい。ただ、ちょっと悲しかったのは、この男性がたばこ屋の主人で、この絵が店頭に広告のように貼られていることだ」と記している。

さて、多くの女性芸術家には、恥ずかしがり屋で孤独 というイメージがあるが、トーベはそうではなかった。踊るのが好きで、泳ぐのが上手、キレイな服を着るのも好きで、中でも服には非常にこだわっており、手紙にもよく洋服の話題がのぼっていた。赤いシルクのイブニングドレスはお気に入りで、前線で戦うボーイフレンドに、このドレスを着てのディナーがある と、写真と手紙を送っている。その赤いシルクのドレスを着た自画像が紹介され、次に、もっとも重要性を持っている絵として、『家族』(1942年)がスクリーンに。そこには、母と父と弟たち。彼女自身は黒の服を着て、弟二人はチェスをしているが、駒が白と赤で描かれている。赤は血の象徴である。フィンランドでは戦況が悪化し、食糧も不足。弟たちに何が起こるかを心配し、生と死の狭間にいること、戦争を象徴するような表現だ と解説。あまりにも多くのことが含まれているこの絵。後に酷評されたが、トーベはそれほど長くは落ち込まなかった。自分が目指すものは画家で、酷評など気にせず、画家としてやっていきたいというトーベの姿勢が現れている新しい自画像。私は猫のようだと、猫の目、山猫のえりまきをし、後ろに花を飾った肖像画などが紹介された。この頃から、トーベの絵の随所に戦争の影が現れ始める。

勇気あるトーベの風刺とユーモア

戦争勃発前、ヨーロッパを巡っていたトーベは、世界の政治の動き、雰囲気をいち早く感じ取り、雑誌『GARM』や他雑誌に、様々な挿絵を描いている。「ママ」としゃべる人形を買いにいくと「ハイル ヒトラー!」という人形しかない と言われている絵。椅子に座ったヒトラーが「戦争する」「戦争しない」と花占いをしている絵。「あの国がほしい!この国が欲しい!」と、だだをこねるヒトラーの絵。あえてこういうことを絵に表現するのが、トーベだった。当時のフィンランドの戦争プロパガンダに従わず、戦争の悲惨さ、空腹に苦しむ人たちを描き、1940年の初めには、スターリンをおもしろおかしく描いた作品もあった。これは出版されなかったが、トーベはスターリンの顔を通常の兵士の顔に変え、最終的には署名をして出版した。

戦況次第では自分の将来も左右されるというのに、作品に署名し出版する。トーベは勇気ある人だった。戦後も「ナチを信じた」「スターリンについた」と、お互いを責め合う人々を浄化するマシーン というような風刺画を『GARM』の表紙に描いている。

そんなトーベも戦時中は絵を売って生計を立てていたため、静物画も多かった。トーベの想像の中に常にあった楽園を描いたもの、壁を飾る大型のフレスコ画。トーベのキャリアにとって重要な存在となった演出家ヴィヴェカ・バンドラーと、本人が描かれているパーティの絵 と紹介が続き、ムーミン谷に登場するキャラクター、トフスランとビフスランはヴィヴェカとトーベがモデルなのだと明かされた。

いつもムーミンファミリーがついてくる

50年代になると、トーベはあまり絵を描かなくなった。それは、戦争中から取り組み始めたムーミンが生活の中心に据えられるようになったからだ。ヴィヴェカとイタリアを旅する絵のトーベの後ろにはムーミンファミリーが描かれている。1947年に初めて出した漫画はとても評判が良く、その頃、世界で一番発行部数の多かったイブニング・ニュース紙にも掲載されていた。イギリスで英語化され、世界に広まり、それまでスウェーデン語系の人たちに親しまれていたムーミンは、最終的にフィンランド語にも翻訳された。
トーベが漫画の連載をしたかったのは、一つのイラストレーションだけで済み、あとの時間は画家として仕事ができる と考えていたからだ。だが、そうはいかなかった。トーベはムーミン本の中で、バラの絵でコマを割るというような新しいこともやって見せているし、世界中で有名にもなった。「7年間、継続的に定期収入を得ることができるようになったのは嬉しい、アパートも改修できたし、素晴らしい経験をした。」とトーベは語ったそうが、これに全エネルギーを注がなければならなくなり、契約の7年が過ぎた時、「長年経った結婚のようなもので、もう離婚したいわ。」と編集長に申し出たという。以降、トーベの一番下の弟がムーミンを引き継いだそうだ。
トーベは、ただ絵を描くことに戻りたかったのだが、当時は抽象画が全盛期。そこにトーベの地位はなく、ストーリーテラーとして絵を描くトーベにとっては、タイミングが悪かった。時代の波には逆らえず、半分は抽象画でありながら、写実的なところも残したい…というような作品が紹介された。

ムーミン谷はトーベ自身の人生

1975年、トーベはグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラと出会い、パリへ行く。しかし、アトリエが小さすぎ、なかなか絵を描くことができずに、最後に描いたのが、トゥーリッキが仕事をする姿だった。この作品と、62歳の時に描いたという自画像を紹介。トーベ自身は「醜い自画像」と呼んでいるが、この自画像は最も素晴らしい絵の一枚だと思っているし、トーベ自身も素晴らしい仕上がりだと感じていたはずだ、と氏は話し、ムーミン谷の紹介へ。40年代のブラックムーミン、日本での命名がベストだと、初期のニョロニョロ、初期のムーミン、拡大鏡の中のリトルミイ、初期の表紙 と続いた。

ムーミン谷のお話は、トーベ自身の人生ともだぶっている。スナフキンは元フィアンセのアートス・ビルタネンをモデルとしているという。トーベには多くの恋人がいたが、恋人でなくなっても、人生を通じてずっと良い友人であった。恋が終わったとしても、そこから友情が始まるという関係だ。『ムーミン谷の冬』のスケッチを見せながら、氏は、この本はとても重要だと話す。この本は、トーベのストレスについて書いた と手紙に記してあり、ストレスとは寒い冬であって、そして自分だけで孤独に感じている、ハッピーではない時期だと説明している。漫画の連載をやめ、そんな冬に入り、トーベはトゥーティッキのモデルとなったトゥーリッキ・ピエティラと出逢う。この作品は、ストレスに関する本であり、最も美しいラブストーリーでもあると氏は語る。トーベは大人向けでも、子ども向けでもなく、人間のために描いていたのだと氏は話し、スナフキン、リトルミイ,目に見えない子などを見せながら、目に見えない子というのはトーベ自身で、いつの日か自分の顔を見つけられることを願っている   と書いている手紙もある と話す。ムーミン谷には悪者も登場する。リトルミイや、訪れると地球が凍ってしまうという、恐ろしい存在のモラン。モランを暖めるとムーミンの本は描けなくなる。バランスをとるために素晴らしい人格を持った人と、対局の存在が必要なのだとトーベは話していた。そして『ムーミン谷の11月』を紹介。ムーミン谷の本はこれで終わりとなり、この当時、グラフィック本としては素晴らしい時期なのだが、子ども向けに出版されていたが故に、クオリティの高さには注目されなかったという。
トーベはトゥーリッキと世界各国を旅し、60年代まで、約40年間を共に過ごし、共に仕事をし、日本にも二人でやってきている。海の真ん中に浮かぶクルーヴ島のコテージでは、年に5ヶ月ほど滞在し、作品作りもした。「飲み水もないところで、どうやって住んでいるの?」と聞かれると、トーベは「そうね。でも、時々雨は降るわよ。」と答えたそうだ。人は全てを求めることはできないし、全てを手に入れることもできない。時々雨が降れば十分だというトーベ。生きる上で、素晴らしい考え方だと、氏は語る。そして、最も美しい というトーベの写真がスクリーンに映し出された。弟ペルが撮った波打ち際のトーベ。泳ぐのがとても上手く、全く水を恐れず両手を掲げるその姿に、トーベの姿勢そのものがよく表れている。トーベの哲学は、ムーミン谷のスナフキン(アートス)とムーミン(トーベ)との関係にも表れている。去って行くスナフキンに対し、泣くムーミンは、「テントを立てるのに良い場所、暖かい気持ちでいられる、居心地の良い場所を見つけてほしい」と言う。氏は、「他の人の幸せを願うトーベの心が、写真にも表れていて、本当に素晴らしいと思う」と締めくくった。会場からの質問に答えた後「本日お話ししたのは、トーベのごくごく一部であり、ムーミンの生みの親として有名なトーベだが、今回の展覧会、著書では、才能豊かなトーベの新しい側面を知り、楽しんでいただけるでしょう。」と、フォーラムを終えた。

モリサワ文字文化フォーラムとしては珍しい内容となった今回のフォーラム。トゥーラ・カルヤライネン氏の快諾を得て、関東に先立ち講演をいただき、新たな幅広い層の方々にもご参加いただけ、いつもと少し異なる会場の雰囲気に、モリサワの活動を新たな層に知っていただく機会にもなりました。フォーラム終了後、1Fロビーでの書籍即売・サイン会も盛況で、大阪には来年夏の巡回となる“ 生誕100周年 トーベ・ヤンソン展 ~ムーミンと生きる~ ”への期待も高まる中、幼い頃に親しんだムーミンに、また会いたくなった一日でした。「ねぇ ムーミン、こっち向いて♪」