モリサワ文字文化フォーラム

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フォーラムレポート

第13回 - 文字とデザイン Vol.5

2014年6月5日、株式会社モリサワは、第13回モリサワ文字文化フォーラム 「文字とデザイン Vol.5」を開催いたしました。
モリサワ本社4F大ホールにて約280名という多くの方のご参加をいただき、約4時間半の3つのセッションで構成するフォーラムを予定しておりましたが、当日、講師の方々の嬉しいお申し出をいただき、最後に全員によるトークショーを行うという4部構成となりました。セッション1では、クリエイティブディレクター齋藤精一氏による「無いモノを創る、あるモノを使う」。セッション2では、アートディレクターの平林奈緒美氏と古平正義氏による「『タイポグラフィー』って、本当のところ、何?」。セッション3では、グラフィックデザイナーの佐藤卓氏による「感性に逃げないデザイン」と、各分野を代表される方々からお話のあと、質疑応答を交えた楽しいトークショーを繰り広げていただきました。また、本講演はUstreamによるライブ配信を行いました。

Session1 「無いモノを創る、あるモノを使う」

─ 齋藤精一 氏 ─

斎藤精一 氏

「こんにちは!」と元気な挨拶で登壇された、株式会社ライゾマティクスの代表である齋藤氏。「ライゾマをご存知ない方はいらっしゃいますか?」と会場に問いかけ、ライゾマはデジタルをメインに、基本的にはデザインや美術作品を制作。様々な技術、スキルを持った人間が集まっている会社。Creativeというより、Collectiveと呼んでいると説明。近年、急に発展したデジタルには、紙媒体のように長い文化があるわけではなく、まだまだ色々な技術の使い方、出し方があるのだと話された。社内の共通意識は「誰も見たことのない、まだこの世にないものを」。全く新しい技術を創るというのは難しいので、今ある技術を足して、新しいモノを創るのだと語られた。

齋藤氏は一風変わった経歴を持っていると、まずは自己紹介から。建築学科を卒業後、コロンビア大学の大学院で建築を学んだ後、ニューヨークの建築事務所に勤務。ひょんなことから広告代理店にデザイナーとして足掛け6年勤務したが、自分で創りたい作品があり、30歳前に自分の思う作品作りをしたいと美術作家となる。2003年の越後妻有トリエンナーレでアーティストに選出されたのをきっかけに帰国。海外と日本を行き来するフリーランスのクリエイターとして活躍後、2006年にライゾマティクスを設立された。美術作家でお金を使い果たしたと話し、多くの人が美術作家だけでは食べていけず、作品をつくるために副職を持つのだが、この時、アーティストとしての名前は使わない。自分はどちらも同じ名前でやりたいという考え方で、最終的にそれがライゾマという会社になったのだとも話された。

学生時代は、コンピュータを使った建築表現、作るというよりは理論構築をしてカタチを作り出すこと、アルゴリズム建築をやっていたが、一番専攻していたのがモフォロジーだったそうだ。「ポエティックに言うと、建築とどうやって対話し、そのなりたいカタチを引き出してあげるか」と説明し、学生時代からの作品をいくつか紹介してくださった。展覧会の空間設計は賛否両論。“どっちが作品なんだ?”というのが自身の感想。建築事務所に勤めていた頃は“僕の考える建築は、建築の領域をはみ出している”と思い、1分1秒で反応できるような建物というのができないかと考えていたが、どうやらこれは建築に合わないなとも思い、同時にアーティストとしても活動していたと、平野治朗氏との“White Base”、美術を買う習慣を作ろうと「赤字で文化を創ります」と謳った20名のアーティストたちのユニット“穴薪カナコ”の活動作品を紹介。この時の感想は“アーティストだけで到底生活はできなかった。そしてアートは想像以上に閉じた世界だった”ということ。作る人も、見に来る人も、批評する人もみんな同じ小さな世界の中。そこから外へ出るのは難しいということだ。こういう経験を通して、2006年に同じ大学出身の3人で始めたのがライゾマティクス。当時はまだインタラクティブという言葉自体がなく、かろうじて語られていたのはWebの世界ぐらいだった。ライゾマが考えるインタラクティブとは、人が通ると電気がつくとか、音が鳴るという物理的なもの。海外では既にあったので、日本に必ずくるはずだから、自分たちで創ろうと考えた。しかし、インタラクティブを売ろうとしても事例があるのか、やったことがあるのかということが重視され、理論上は可能なモノでも、売れない。ならば自分たちで作って、それをもって売る。YouTubeにアップして、いろいろな人に見てもらうということをやってきた。

そして、2008年頃からインタラクティブが世に出始め、2014年には総勢30名強の会社になったという。ライゾマの2つの柱はアートとコマーシャル。問題提議→問題解決、挑発→解決、自己営業→他企業との共同作業、発明・発見→発明の使用、最後がメディアアーティストのマネタイズ。アートの部分を担う

4nchor5 la6(アンカーズラボ)は、何か創る気があれば、なんでも創れる環境だという。作品を創る→お金をつくる→作品をつくる、エコシステムというか、これらがうまく循環してライゾマがある。このトランジションをどうできるかが大切で、この循環をどんどん大きくしてアイデアの質、様々なクオリティを上げていく。そして、コマーシャルばかりやっているとアカデミックな部分がすっぽり抜けていくので、アカデミックな部分もしっかりと手がけていくのだという。ライゾマのフィロソフィーを知ってもらおうと、アートの活動、コマーシャルプロジェクトと分けて作品を紹介された。展示会、LexusのCM、D&AD年鑑のデザイン、社歌、医療技術を応用して表情をつくる8つの筋肉を動かし、顔で音をビジュアル化するという作品、パフォーミングアート、ワークショップ、眼鏡のプロトタイプ、新ビジネスのブランディング、仙台の地下鉄、と説明を加えながら紹介が続き、おなじみのみんながスマホを振っているKDDIのCMは「今あるものをちがう規模で使ってみよう」と、シンプルなことを大掛かりにやっているだけだと語った。次々に映し出される作品の映像は、どの作品にもライゾマのマインドが光っている。ただのコマーシャルではない、これがArt + Commercialということなのだろう。新しい世界に心を動かされる。作品の数々はライゾマティクスのサイトでもご覧いただけるので、ぜひアクセスしてみてほしい。

最後にライゾマが見る未来として「東京オリンピックをやりたい」と齋藤氏。
アートとコマーシャルとR&D。これらを3つの大きな柱として、それぞれの良さを活かしつつ、ライゾマで最大化する。ライゾマはエンタメに特化した会社で、エンタメは技術を世に出す出発点となり得るのだと続ける。例えば、一般的には知られていない医療技術もエンタメ的手法を通して知ってもらうことができる。エンターテイメントという切り口で色々な技術、手法、気づかなかったものを引き出していくのがライゾマ。ライゾマが今までやってきたことは、“今持っている技術をちょっとだけ変えると、実はもっとたくさんのものをコントロールできる”ということだ。そういうことを気づかせてあげるワークショップも開いているそうだ。

「枯れた技術の水平思考」という横井軍平氏の言葉のように、違う切り口、違う使い方をするだけで、新しいモノの新しいアイデア、新しいカタチが出てくる。今から、誰も見たこともないものの基礎的な研究は難しい。応用で作られたモノをまた応用で創る。マッシュアップが今の手法ではないか。「同じモノを違う視点で見る」というのは、よく言われるが、とても大切で非常に難しい。とはいえ、いつも自分に訴えかけていると齋藤氏。技術と手法というが、技術は持っていて当たり前。一人一役の時代は終了し、一人一役以上の技術、知識を持っていなければ仕事につながらない時代であり、技術と手法の両方を持っていることで見えてくる世界があるのだと話す。

そして、最近「広告ってなんでしたっけ?」とよく思っているのだと。今は15秒のコマーシャルで10万人に一挙に宣伝できる。広告は、単純に楽をしているんじゃないかという気がする。技術がたくさんあるからこそ、人がどんどん不要になるかというと、そうではなくて、人が介在しないといいモノはできない。楽をせずに技術を使ってやっていこうと、自分への戒めも込めて、そう考えている。そして、一番リスペクトしている人たちは“ものづくりアンカー”だと話す。パソコンが悪くてもプリンターがよければそれなりのモノになるが、いくらパソコンが良くてもプリンターが悪ければダメ。「最後にアンカーとしてそれを創っている人たちのことをしっかり考えなければならないと思っている」と。最後にスクリーンに映し出されたのは、ライゾマのフィロソフィー「完全現場主義」の文字。「現場が全てです」と、全てが現場で作られているからこそ、現場の人たちに気を配れと言うし、自分たちも現場の中にいなければならないと言う。これライゾマの考え方ですと締めくくられた。

Session2 「『タイポグラフィー』って、本当のところ、何?」

─ 平林奈緒美 氏×古平正義 氏 ─

平林奈緒美 氏

女性アートディレクターということで声をかけていただくことが多いのだが、こういう場所が苦手なのと、せっかくだから同業の人と話をしたいと思い、対談形式を要望、対談相手には、日本人デザイナーで英文を組ませたらイケテル!と思う2大デザイナーの一人にお願いしたのだと、古平氏を紹介した平林氏。「今は、感覚とMacがあれば、誰でもグラフィックデザイナーってできる時代だけど、タイポグラフィーは、技術と知識が必要な数少ないパートだと思うし、すごく好き。とは言え、ちゃんと考えたこともないし、ちゃんと勉強したこともないので、そういう話を古平さんに聞きたいなと思いました」と続けられた。古平氏は海外でもタイポグラフィーのシンポジウムに呼ばれることが多いそうだが、タイポグラフィーって難しいモノだと思っていて、自分がちゃんとできているとは思ってないと話し、「おぉ、またタイポグラフィーきたかっていう感じで、ウィキで調べてみたんですよね」と、スクリーンに解説を映した。文字のデザインをどうこうというのではなく、ちゃんとした規範にのっとって美しい文字組を作ることがもともとのタイポグラフィーの意味だと説明してくれた。「最近、タイポグラフィー好きです…という人が増えているけど、僕はあまり理解していなくて、苦行だと思っているんですが、具合の悪いことにタイポグラフィー的な仕事が多く見えているみたいなんですよね。単純に予算が少ないからだけなんだけど」という古平氏に、「私もよくわからなくなってる。適切な書体を選んで、適切な目的できちんとしたカタチで文字を組むというのがタイポグラフィーだと思ってやってきたけども。文字を作ったり、文字を使って華やかなポスターを作ったりというのもタイポグラフィーという認識になってきている?」と問いかける平林氏。特に日本では、文字をメインにしたデザインというようになってきている。そんなことを思いながら英語版ウィキを見てみると、意外にも英語版では柔らかめになっていて、タイポグラフィーは誰にでもできることのような、漫画アーティスト、コミックアーティストなども登場するくらい、コンテンポラリーな、今の時代にあった広範囲の認識になっているようだと、古平氏。

古平正義 氏

そこでスクリーンに映し出された写真。「来る途中、新幹線の中で目の前にあった案内図。思わず写真を撮ってしまったんです。なんかもう、めためたで。読みにくいし。私のまわりにはちゃんと文字を組める人がいるのに、いったい誰に仕事がいくのかなぁ。許せない!」と、平林氏は気になる点を指摘する。「世の中、こういうものが蔓延していて、いったいどうなんだろうと思って。意外とデザイナーって気づいてないじゃないですか?」と続けると、古平氏は「いや気がついているんですけど、そこ、気にしだすと、生きていけなくなるから。死んじゃうから、目をつぶっているってことですかね」と笑う。「私、いつもギラギラしているから…色々気になって」と、平林氏は、ある警察署のホームページをスクリーンに映し、「うそでしょ!?と驚いた。こういうサイトにエンターテイメントはいらない。考えられなくないですか?」と、お怒りモード。デザイナーが見ていかんなということになっても、どうすることもできない。モリサワのような会社こそが、こういうの、ちゃんとやっていけるんじゃないかなと、古平氏が続けられた。次に、平林氏は当たり前のように町の中にあるものが美しいと、ドイツの空港のサインをスクリーンに。何もしていない、特にデザインらしきことはしていないのに美しい。こういうことがタイポグラフィーだと話す。「行間、字詰め、アキ、罫線の太さとのバランスとか。欧米の人は、歴史があるから、はなから身に付いている。僕の感覚だと、日本ではまだタイポグラフィーというのは素地ができていない状態だと思う。なのに、なんだかデザインの方が先行している」と古平氏。最近気になるのは、美術館のポスターのなんとか展というところがやたら文字をデザインしましたみたいになっていること。「あれが大っ嫌いなんですよ。デザイナーが文字をいじくるのががんばりどころみたいな、そのぼたんの掛け違い的なところが、日本では多いと思う」と言う古平氏に、「日本では、あそこもそこも目立たせなければならないみたいなことから、多色刷りになり、文字が大きくなったり、太くなったり。そういうことがかえって見づらくしているよね」と平林氏。「海外では、クライアントの方がタイポグラフィーをわかっていたりするね。社会とデザインの関係性が日本では違う。日本語は文字組の当たり前のルールがそれさえも崩れているものがあって、誰も気にしていない。仕事が成立しさえすればいいというような、この違いはすごく感じる」と古平氏。平林氏は「日本語を組む時って、自分で全部文字詰めするんだけど、ちゃんと内容を読むんですよ。内容によって組み方は変わる。そういうように仕事をしてきたんだけど、少し前に雑誌の仕事をして、そんなことをしていたら10年かかっちゃうから、あきらめて…。それを超える何かを探すのに三年くらい費やしていた」と笑い、平林氏の作品紹介に。スクリーンにはdocomoの携帯電話のパッケージ。続いてパソコンのリニューアルのお手伝いで驚いたのが一番上にくるアイコン類だと。同じ大きさにすると線の太さや角Rが違うし、デザインも全然違う。「こんな大きさでしか使わないけど、私ものすごく拡大するんですね。Macでも3600倍とかにして角と角のポイントを見る。実寸では気づかないかもしれないけど、全部作り直したんです」とその仕事ぶりを垣間見せる。古平氏も家電の文字部分の監修を例に、デザインクオリティの高いモノを作るということをはるかに超えていく、違う論理からくる余計なことが入って成り立つ世界。

様々な壁が立ちはだかると話された。印刷されている文字に腹が立つので炊飯器は買っていないというお二人。平林氏はセコムのコントロールパネルを英語版のものにしたり、古平氏はトイレのリモコンを英語版にしていたり、デザイナーじゃない人でも、みんなの不満はあると思うと、文字に対するこだわりに共通する部分は多いようだ。パン屋さんのロゴマークなど平林氏の作品紹介に続き、古平氏が自身の作品を紹介しながら「日本語も英語も、文字をいじるっていうのを極力やりたくない。すごく時間をかけて専門の人が創った文字があるんだし、日本語って文字の形をデザインしすぎると、そこに好き嫌いがでてしまい、言いたいことがあとになってしまう。既存のノーマル書体を使えば、好きも嫌いもなく、一番にメッセージが入ってくる。極力、文字自体をいじらない。配列もへんなことはしない。正しい行間、字間、ノーマルがキレイに見える」と古平氏。「よくわかります。当たり前に存在していてキレイなものの方を見ちゃうんですよね。たとえば海外の宅急便の送り状とか。どうやって整理しているのかなぁとか。目立つところはどうやって処理しているのかなぁとか。それは日本語にも置き換えられるじゃないですか。私、ホント、佐川急便の伝票やりたいんですよ」と言う平林氏。「欧米の人は、子どもの時からちゃんとしたものを見ている。もうちょっとセンスのよろしいタイポグラフィーが一杯あるところで生活しているから。

そこで生きているから、変なものにいかないんじゃないかな。今って、デザインが誰にでもできるようになって、はげしく文字が平たかったり、無用な影がついていたり、へんなフリー素材で、適当にできちゃうっていうのがイタイですよね。昔は写植を打つのも、適当にはできなくて、少なくとも特別なことだったから、ちゃんとしていたというかね。文字が好きですという若い人も増えていながら、どんどん汚いモノが増えてくるっていうの…どうしたらいいんですかね」と古平氏。デザインに落とし込まなければならない情報量が多すぎること、お酒やたばこのパッケージ、消費税表示など、平林氏の資生堂時代のちょっとした暴露話に笑いが起こり、お話はどんどん進み、外国のCIマニュアルの話へ。外国の企業のロゴのルールは非常に厳しいが、そこまで厳しい外国のロゴは、ロゴ自体がちゃんとしていて、マニュアルもちゃんとしている。「私、CI大好きで。特にマニュアル大好きで。あれこそ技術職っていうか、とてつもない時間をかけて、とてつもない検証をして、ようやくあのマニュアルができて…。あれがあることによって、誰が何においても、それがキレイに見えるっていうの…」と話す平林氏に「そう、そう!マニュアルは、ロゴを守るためのものではなくて、印刷物をキレイにするためのもの。しかも外国の大企業のロゴは何千万とかもらってますからね。それをね、何十万かで作ったちゃっちいロゴで真似するなと言っておきたいです。ははははは…」と笑う古平氏。イギリス国鉄、スイスの製薬会社、ミュンヘンオリンピックなど、展覧会を開けるくらい、CIマニュアルをいっぱい持っているという平林氏。「ああいうもの自体も、外国の方がカッコいいっていうのが悔しいですね」「悔しいです」とお二人は声を合わせる。

そして古平氏の作品紹介が続き、まとめとして「普通にしましょうと言いたい」と古平氏。「今ってデザインって安くなってるじゃないですか。金額だけのことではなく。昔ってグラフィックって100万円とかの仕事だと思ってたんですよ。100万円、200万円とか、もっととか。今って20万とか30万とかの仕事になってる感じがあって。結局、タイポグラフィーって文字をぐにゃぐにゃにいじったりする、ちょっと趣味的なところにいってるけど、すごく地味なこと、普通のことをちゃんとすることの方が高級っていうか、プロの仕事っていう感じがあって。そういうことをちゃんと戻して、ベースをしっかり作るっていうことが大事だと思う」と話され、平林氏は「そうですね、色々考えるとやるせなくなってしまうけど、きちんとして、ある意味ちゃんとやれている人は確実にいるのだから、そういう人の枠はあるわけで。自分はその枠の中に入りたいと思っているんです」と述べられた。思いをストレートに伝えるお二人の対談は、なるほどとうなずき、笑い、考えさせられるものでした。

Session3 「感性に逃げないデザイン」

─ 佐藤卓 氏 ─

佐藤卓 氏

「大阪ってちょっとドキドキするんですよね。」と、数年前に大阪へリサーチにいらっしゃった時のお話で会場の空気をなごませ、「文字はグラフィックデザインの最も基本。言葉とか音、それを可視化したものが文字。文字はその国の文化そのもの。ということは、その国のデザインを考えると、文字を考えることになる」と、佐藤氏の話は始まった。

デザインは感性の仕事だと言われた自分の時代、感性のない人なんているんだろうか…と、それはおかしいんじゃないかと思っていたそうだ。そして感性を売り物にしていいんだろうかとも思い続け、今改めて“デザイナーは感性に逃げてはいけない”とはっきりと言えるようになったと語る佐藤氏。

デザインを学んでいる人たちは、根本的に表現するということが好きで、表現力というものを身につけながらここにきている。アートの世界では、身につけた表現力を自己表現に使えばよいが、デザインとなった時、とかく、表現力を身につけた人間はそこに頼ろうとしてしまう。私もそうでしたと言う佐藤氏は、「デザインというのはやるべきことをやるのであって、やりたいことをやることではない」と断言し、「改めてデザインとはなんだろうかと考えると、たとえば、デザインと全く関係ないものが世の中にあるのだろうか」と、佐藤氏は問いかける。

政治、経済、医療、福祉、自然科学、教育…。ありとあらゆるところに既にデザインはある。あるにも関わらず、政治のためのデザインというような言葉は一切耳にしない。ありとあらゆるところにデザインが必要なら、身につけた表現力で、ありとあらゆる場所にデザインを活かすことが必要なんじゃないか。なのに、社会的にそういう認識がなされていないのは、大きな問題だと語る。デザインが活かされる場はある程度限られ、文化よりも経済を優先する、つまり金儲けのための道具としてデザインが使われてきた。ものを売るためのデザインというイメージが社会的に浸透してしまったのは、大きな問題でもある。デザイン家電、デザイナーズマンションという言葉のデザインは、有名デザイナーがデザインしたという意味、もしくはカッコいいという意味で使われる。それ以外のものにはデザインがないのか。ないわけがない。すべて誰かがデザインしているにも関わらず、そういうものはデザインとは言われず、カッコいいもの、話題性のあるものだけがデザインと言われてきた。ありとあらゆるところにデザインがあり、文字がある。デザインのスキルを持った人間がするべきことは、与えられた環境でやるべきことをやる。それに応えられるスキルを持っていなければならないのだと続ける。

そして、国立国会図書館の「日本十進分類法」の話へ。“デザイン”という言葉は芸術の中に分類されている。しかし、現実を考えてみるとデザインというのは分けられない。分類されたものの中にデザインという枠があるのではなく、世の中のありとあらゆる物事と人をつなぐ間に、レイヤーのように存在するのがデザインなんじゃないかとわかってくる。デザインは、まさに言葉とか文字と同じなんじゃないか。では、デザイナーとしてどうやって社会と向き合っていくかというと、ありとあらゆるところと接続できるという状態にあるべきだと佐藤氏は説明する。

0.1秒を争う世界、医療の現場からコンピュータのインターフェースの相談が来たときに、きちっと応えられなければならない。0.1秒で読めるのはどういう書体で、どういう大きさで、隣の情報とどれくらい間隔を開けるべきかなど、そういう場にまだまだデザインは踏み込めていない。こういうところにデザインのスキルがもっと入っていくと社会のためになるし、デザインが世の中のためになっていくという認識も高まる。そうするとデザイナーの仕事ももちろん認められるし、仕事も発生するのだと話し、「日本十進分類法でデザインというカタカナ4文字を探ってみてください。色々な問題が見えてきます。どうしてこういう話をするかというと、小学校の教育の現場で、子どもがデザインに興味があって本を探すと、芸術の端っこにちょこっとデザインって置かれている。そういう環境で教育を受けていくと、デザインってそういうもんだと当然思うでしょ?これは結構大きな問題じゃないかとね。そういうところに興味があったりするからです」と佐藤氏。

続いて、氏の作品紹介が始まった。社会人になって最初、広告代理店に入った佐藤氏。自分が飲みたいと思うウイスキーがないと言ったことから自主プレゼンをすることになった、ニッカウヰスキーの『ピュアモルト』を紹介。この仕事から、人の持っている気持ちを自然とナビゲートして引き出せる、前もって準備するということができるんじゃないか。そこでデザインって何なんだろうということを考え始め、これって、人と物の関係を刻々と時間軸によって創造し、想定していくということ。仮説を立てて、経験をデザインしているんだと思い、人との関係によって経験が生まれる、その経験を前もって予測してできるだけのことをやってあげておく…、こういうこともデザインだと思い始めたそうだ。

デザインの可能性を探るためにも、ありとあらゆることをこれからしてみたいと思っていた佐藤氏。パッケージデザイナーと呼ばれるのはどうかと思っていたが、そんな仕事が多かったそうだ。「パッケージデザインも面白い。グラフィックデザインとプロダクトデザインとの中間にあって、ウイスキーはインテリアの一部にもなるし、化粧品なども、しばらくは環境の中に置かれるのでインテリアデザインとも言える。パッケージデザインは、ありとあらゆるものを繋いでいるメディアだと感じ始めた」とも語った。続いて、『ゼナ』の紹介。社会に出たら職種も立場も違うさまざまな人と出会うことになる。打ち合せなどは、ぐっとこらえて必要以上にご一緒するというのが重要になってくる。『ゼナ』に必要な滋養強壮のイメージを考え尽くした結果“わからない”というキーワードにたどりついたこと、最初の提案は理解されず、わかる案を100案作ってくださいと依頼されたこと。忍耐が重要だが、100案作るのはある意味簡単で無責任に作ればいいのだと。さらなるクライアントの要望の後、しばらく連絡がないまま、3か月くらい経ってから、最初の案に決定したと連絡を受けた。忍耐が必要だったが、決定までの期間は、なぜこれがいいのかということを共有する時間となった。デザイナーが与えているのだという状況では捨てられるが、自分たちも一緒に作っているという意識が生まれると、残そうという気持ちになるもので、それが今もゼナがそのままのデザインで残っている所以だと、共有することが重要だと話した。続いて『おいしい牛乳』では、一生活者として普通であってほしい牛乳。商品の“わきまえ”というのが重要だと、デザインの経緯を話してくださった。パッケージは中身を可視化するもの。いじらない、そのまま、余計なことをやっていないというデザイン。そして縦の形には縦組み。こんなに文字の豊かな国は世界のどこにもない。あたりまえのように日常生活の中で使いこなしている。整理整頓するのが難しいから汚くなるのだが、うまく使いこなせるとこんなに素晴らしい国は世界のどこにもないとも話された。続いて、『S&B スパイス&ハーブ』、『XYLITOL』と、ひとつひとつ丁寧に解説をしてくださり、『XYLITOL』のお仕事から、解剖というアイデアを考え、デザインを考えるプロジェクトを立ち上げてみてはどうかと、知っているところから中に入っていくアプローチ、ありとあらゆることを解剖してみようと、モノとは何なのか、商品とは何なのか、デザインとは何なのかという展覧会をやってみたいとメーカーに提案し、2001年に開催に至ったそうだ。身の回りのモノって知っているようで知らないということに気がつき、展覧会は“既知の未知化”だと、続いて『写ルンです』、『おいしい牛乳』、『リカちゃん』なども大解剖したそうだ。

2007年の水の展覧会の紹介では、水に対して興味を持たせてくれたきっかけが牛丼だと話し、牛丼一杯には2000リットルの水が使われている、どういうことかというと牛は大量の水を飲むし、餌の穀物を育てるのに使われる水もある。こういう見えない裏側で使われている水が2000リットルなのだと説明され、見えないモノと人を繋ぐところにもっともっとデザインというものが活かせるのではないかと思うとも話された。引き続き『北の手間ひま展』を紹介し、便利というのは手強いウィルスだと思う、便利を知ってしまうとその前に戻れない。最近手間ひまをかける機会が減ってきたと話された。

続いてNHKの子どものためのデザインの教育番組『デザインあ』の紹介。2011年の春からスタートし、多くのクリエイターの方に参加をいただいて続いている。子ども向けの番組なので、思いは伝わらなくてもいいんだけど…と、イントロの映像を流しながら、そこに込めた思いをご説明くださった。一回きれいに並んだ「デザインあ」という文字を、最後にこどもの手が出てきて、ばん!っとやって文字が崩れる。このラストは自然に委ねたもの。社会に提供されたデザインは何らかの形で風化していく、いわゆる自然に委ねられる。それをデザインの制作過程に取り入れてみてはどうかと。最初から世の中に出た後のことを前提に、それを制作の過程に取り入れていいんじゃないかという思いを込めて、後にばんっ!とテーブルを叩いてもらうことにしたそうだ。昨年の展覧会は、許可を取るのに時間がかかったが、最終的には全面協力をいただき、テレビは主に目と耳なので、体全体できてくれる展覧会では全身のセンサーを使ってもらえる体験型の展覧会にしたというお話に続き、今開催している「※展(こめてん)」の紹介、米が日本を作ってきたと言っても過言ではない、食をないがしろにするとその国は滅びるし、日本人の生き方の中に確実にある、自然を征服する対象とせず、自然にあらがうことなく、どう沿わせていくかということ。自然に沿わせるということが大切だと話し、「なので、私はサーフィンが大好きなんです」とスクリーンにはサーフィンの写真、会場から笑いをとって幕を閉じられた。

特別プログラム

─ 4名によるトークショー ─

会場に4名の講師陣が登場。なごやかなムードのなか、佐藤氏からの問いかけでトークショーは始まった。

佐藤:「今、最先端で活躍している方々は、斉藤さんをはじめ、美術大学出身ではない方が多くいらっしゃるんだけど、何か、クリエイティブに対するコンプレックスというようなものはないですか?」

齋藤:「非常にあります。美術大の人って予備校も一緒で、他の大学行ってても、卒業してからも仲がいいし。僕はそういうことが全くないので、コンプレックスは持っているんですが。僕たちは、最後のアンカーというかフィニッシャーじゃないですか。今、僕でもついていけない技術とかたくさんあって、それを色々知っていないとできないんです。それで思うのが、大学ではそういうことを教えてくれないというか、能動的に知ろうとしないと知ることはできないということです。授業でやっても実は伸びない。それよりは、ギターは持っているけどアンプがない。パソコンはあるから、パソコンでアンプを作ろうっていう方が伸びる。自分でこれをやりたいというのを見つけられた人が、それに必要な技術とか知識を身につけていって、そういう人がこのデジタルの業界には多いかもしれませんね。教育自体がちゃんとフォーマットされていないかもしれないですね。」

佐藤:「でも逆に、そっちにコンプレックスがあるっていうか。全くわからないというか。いわゆる美術とかデザインはけっこうやってきてるんだけど、言ってみればデザイン馬鹿っていうか。社会性が乏しくなるっていうかね。絵が描ければいいみたいな。だから、全然違う分野の人とやると、学ぶ事が多い」

古平:「僕もちゃんと美大出てない。デザインもすごく好きっていう訳じゃないんですよね。文字が好きですとか言う人、気持ち悪いとか思っちゃう。単純に仕事だからがんばれたっていうところ。医者が手術好きって気持ち悪いでしょ?だから黙々と仕事を遂行するというね。斉藤さんの話を聞いていて、羨ましい部分もあるけど、ちょっと大変だろうなとも思うわけですよ。好きなことと一体化していると、それはそれで、苦しいと思う部分ってあると思うんですよね」

齋藤:「あります。もともとライゾマをつくったのは、どうせ働かなきゃいけないなら好きなことをやって稼げた方がいいっていうのもあって、逆に、好きなことをやっていると時間や予算がなくなって、だんだんクオリティが落ちていったりするんですよね。これっていいのかなぁと思って、わりきれない部分っていうのはあります。僕たちって、今の時代じゃなきゃ、全然フユーチャーされない、工場で働いている人と同じで。毎日朝からネジ締めてるし、ハンダ付けやってるし。僕なんかデザインっていうことがあまり得意じゃないという気がしていて、全部理詰めで考えて、システムを作らないと納得できない。僕もわからないことがたくさんあって、たぶんみなさんも僕たちの技術畑のことでわからないことがたくさんあるんでしょうが、ここがコラボレーションするとまたおもしろいと思います。接点がほとんどなかっただけで」

平林:「そうなんです。それはおもしろいことになるんだろうなって、うすうす気づいているんですけど。私、なにしろ人に会うのが嫌で、事務所から一歩も出ないじゃないですか?」

佐藤:「ストーカーじゃないから知らないよ」

古平:「前の事務所の時なんか、地面踏まない日もありましたよね。車でドアtoドアでね」

平林:「昼間に出るのも嫌なんですよ。テンション切れるから…。なので、毎週日曜日に給食の鍋みたいなのにスープを三種類作って、ジップロックに冷凍して、それとパンを事務所に持っていって、夜は当番制だから一歩も出ない。電話は絶対出ないです」

佐藤:「どうやってコミュニケーション取るの?全部メール?今日は、貴重だね」

平林:「そうですね。オープニングも私いないですよ」

佐藤:「確かにお会いしたことないかも。自分の時はちゃんと出てくださいね」

平林「いや、自分はやらない」

佐藤:「いや、いつかやらなきゃいけない時がくるんだよ。確かに平林さんの世界観は、そこで育まれてくる独特の文字組とかね、なんかあるよね」

平林:「さっきの、齋藤さんの顔ぴくぴくのがすごく面白いなぁと思って。実は、医療関係にとても興味があって、ここ一年くらい、ヨーロッパの医療系の博物館とか大学なんかで、一生見なくていいようなものを大量に見てるんですよ。面白いじゃないですか、デザインとそういうものって紙一重というか、並んでるモノが完全にアートなんですよ。でも、自分で表現したいものってなかなかないし、お仕事っていうか、お題がないとできないんですよね。難しい」

齋藤:「最後に横井軍平さんの言葉をいいましたけど、僕が医療系やロボットに興味があるのは、技術者の人たちが持っているモノ、もしくは知識や、すごくたくさん、いい技術、人目に触れていないものがごろごろしていて。工場のおじさんたちと話しているだけで、ざくざく出てくるんですよね。それが今まで目に触れなかったのはなぜなんだと思って。オマージュっていうのもあるし、リバイバルっていうのもあるし、もう一回エンタメとして出していくと、これ面白いということになるんです。でもさっきのお話にもあったように、そこには機能というか人間工学というもの、デザインがきっちりと入っているんですよね」

古平:「モリサワの文字のデザインをやってる人が20人いるって聞いて、それびっくりしたんですけど、だって、お給料払ってるわけでしょ?日本語の文字って作るの大変でしょ?一つの書体を作るのにすごい…」

佐藤:「一書体二万文字以上っておっしゃってましたね」

古平:「気の遠くなる作業じゃないですか、書体ひとつ作るのに、映画一本分くらいのお金がかかっているわけじゃないですか。それが今も行われていて、しかも20人もいるっていうことに感動したんですよね」

森澤:(会場から)「周辺を含めると100人くらいです」

古平:「100人?どれだけお金がかかっているかってことですよね」

佐藤:「さっきも話したけど、文字ってその国の文化そのものなんですよね。特に日本語って日本だけじゃないですか。日本の文字を衰退させると国が衰退するっていうことでね」

古平:「そこでさっきの警察のホームページみたいなのがね…」

佐藤:「まぁ、やらなきゃいけないことはいっぱいありますけど。せっかくキレイに作ってくれてる書体がいっぱいあるのにね、担当者の意識がね。だから、デザインマインドを育む教育が重要なんだよ。デザインは大切なんだってことを、政治家になる人にも、経営者になる人にもすべての人たちに。だって、最終的にデザインを決定するのは、デザイナーじゃなかったりクリエイターじゃなかったりすることが多いわけでしょ。そういう人たちがマインドを持ってないと、世の中はよくなっていかないですよね」

平林:「私は美大出てるんですけど。グラフィックじゃなくて店舗設計の方ですが。そういうことは美大では教えてくれなかったな」

佐藤「そう、我々も教えてもらってないんですよ」

古平:「ヨーロッパでは、タイポグラフィーって学問としてはもものすごくちゃんとしてるんですよ。日本では、大学でもデザインって職業の一つというか、職業訓練校みたいなところある」

佐藤:「豊かさの指標が経済でしかなくなっているという残念なこと。経済を否定するわけではないけど、文化活動と両輪なわけで、それをどう意識するか、認識するかということが重要で。デザインが金儲けの道具というように勘違いされていることが多いよね」

古平:「しかも、我々が儲かっていなかったりしますからね。佐藤さんは儲かっているでしょうけど(笑)」

佐藤:「展覧会で全部使っちゃうんだよ。やめてよ。ユースト流れてるんだよ(笑)」

齋藤:「デザインの教育っていうと、これだけ美術館があるのに、近くの美術館に行かないですよね。地元の人たちがあんまりこない。大学とかも参画してもっと色々やっていけばいいのに。デザインって高尚なモノというイメージを持っていて…。家のデザインとなると色々いうのに、あれはデザインだと思ってなかったりするんだね。公民館というとダサイけど、ちょっとネーミングを変えると少し集まりやすくなるかなと思ったり、このレベルを下げていくっていうのをちゃんと組み上げていかないと、さっきの警察署のように…」

佐藤:「ほんとすごかった。文字のグラデーションはすごかったよねぇ(苦笑)」

齋藤:「オリンピック2020で整備されていくとは思うけど、しっかりと国を挙げて、へんなところにお金を使うんじゃなくて、審議委員を立てるなら立ててフォーマット化して。それと、もうひとつ感じているのは、今の子どもたちってデジタルネイティブと言われる世代で、うちの3歳の息子も、普通にiPhoneのロックを外して、YouTubeを立ち上げて、履歴から自分の見たやつを見てるんですよね。そういう子たちが大人になった時に、またそれはそれで変わると思うんです。スクリーンがあったら横にやれば横に動くものだと思っているし、インターフェースのデザインとか、これをちゃんと教育に入れておくべきだと思うんですよ」

佐藤:「僕たちの時代は僕たちの時代で色々言われたわけですよ。テレビばっかり見てとかね」

古平:「今じゃ、国が漫画にお金を出す時代ですからね。漫画読んじゃダメって言われてたのにね」

佐藤:「保守的な意見もあるけど、ポジティブに受け止めてね。確かに人間の持っている感覚は、ごく一部のものしか使わなくなっていくかもしれない。でも自然のものに触れていたら、木だったり石だったりね。昔は豊かなものに触れながら育っていたのだから、それを考えた上で何ができるか、感覚を覚醒させるような、たとえば身近な本とかね。本の紙の質感は、印刷の方法はとか、そういうことがやっぱり逆にものすごく重要になってくると思う。感覚は眠っているだけで、なくなることはないと思うんだよね。それを起こしてあげるっていうのがやるべきことのような気がしますね。印刷ひとつとっても平林さんなんか、うるさいからね~。僕もそこまでは言わないんだけどさ。だからこそさ、やっぱりここは箔押なんだろうな~って思わせるのをやってるわけですよ。結構、僕、見てるんですよ。意外と」

会場:(笑)

テンポ良く楽しいお話が続き、あっというまに時間が過ぎ、最後の質疑応答へ。プロとしての丁寧な解答をいただく中で、日本は今まで遅れていたけど、時代は良くなってきているというお話や、BADデザイン賞ってどう?という話が飛び出したり、若い方へのモノづくりについてのアドバイスなど、有意義な時間をいただき、大きな拍手と共に、フォーラムの終了となりました。