モリサワ文字文化フォーラム

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フォーラムレポート

第4回 - 現代日本の漢字文化 ─新しい常用漢字をめぐって─

2011年4月21日、講師に京都大学大学院人間・環境学研究科の阿辻哲次教授を迎え、昨年11月に29年ぶりに改定された「常用漢字表」について“なぜ今改定が必要だったのか、またその改定の目的は何だったのか”などについてを、文化審議会国語分科会委員としてこの作成に参画され、実際に携わった経験からのお話をいただきました。

阿辻先生とモリサワ

阿辻哲次先生とモリサワの出会いは約20年前。モリサワカレンダー「人間と文字」シリーズで1992年、1993年にかけて作成した「漢字歴訪」の撮影取材から監修に至るまで、田中一光先生と共に全面的なご指導を賜り、まとめとして1995年に出版した書籍編「人間と文字」(平凡社)では、第3話「漢字 悠久に流れ」第1章青銅器の銘文から第11章ハングルまでの35頁をご執筆いただきました。

表意文字としての漢字

阿辻哲次氏

「文字は人間が書くことによって、初めてツールとなる。何に書かれるのかということが大きな影響を与え、人間と文字の相対的な関係が時代を追って展開されていく。甲骨文字は最古の漢字であるが、なぜそのようなものが使われたのか。人間の行為としての“文字記録”ということを考えていくと、甲骨文字の時代も現在も同じ。」
甲骨文字は占いの記録を亀の甲、牛の骨にナイフで刻み込んでいるもの。「甲骨文字の形を、“漢字”だというと、学生はこんなもの絵文字であって漢字ではないと言う。例えば書道の達人が書いたもの、草書で書かれたものなどは、どれが何の字なのかわからなかったりする。しかし、日本語の“漢字”“かな”が書かれていることはわかる。読めなくてもそれが日本語だとはわかる。何故、わかるのか。我々には書体というものに関する知識があるからだ。」ナイフで刻んだ文字と、紙や筆が普及し、行書体が使われるようになった頃の文字、現在のコンピューターの表示する漢字。これらは基本的には同じもので、見かけが異なる形で表示されているにすぎないのだ。つまり『漢字は同じ文字を違う概念、見かけの違う形で書かれている。』古代文字である甲骨文字をルーツとし、3000余年に渡って同じ文字が使われている。かつては朝鮮半島、ベトナムでも漢字を使っていた。漢字は言語の差を超越して、共通に使える、実にユニークな文字体系なのだ。

「山」「川」等、目に見えたものをそのまま描き取るのが象形文字で、例えば、女性を表すには色々なアプローチがある。エジプトのヒエログリフでは、長い髪の女性が横向きに座っている形で「女」を表した。中国では手を前に組み合わせ、跪いている人の形。この「女」という字に“チョン・チョン”を付け加えたら「乳房・授乳」という意味を強調し、「母」という字になる。フォークとナイフの絵があるとアメリカ人でも日本人でも誰でも、ここにレストランがあるとわかるように、この漢字を英語圏の人が「マザー」と読んでも不思議はないということだ。

東西南北の「北」は、それぞれの人間が背中を向け合っている形だ。もともとの意味は「背を向ける」つまり、「背く」という意味だった。それが、人が太陽の方を向いた時、背中の方が北になることから、やがて方角を表す文字に変わっていき、元々持っていた意味が薄れてきたので、改めて「にくづき」を付け加えて本来の意味を持つ漢字が作られた。それが「背」である。

漢字は表意文字なので、発音を表す文字を並べて意味を成すことはできず、それぞれの抽象的な概念を一文字に凝縮する。「今すぐ」「これから」「まもなく」という「即」は、ご馳走に向かって「さぁ、これから食べよう」としている人間の形だ。「お腹いっぱいで、もう食べ物は見たくない」とご馳走に背をむける形が「既」。この二つは右側の口の向いてる方向が違う。つまりベクトルが違うということ。このように、“soon”や“already”等のとても抽象的な概念も、それを一文字で表現しない限り中国語は表記できない。

ところで、昨年の11月に新しく常用漢字表が公示されたが、今回新しく追加されたのは196字。ここには3つの「シンニョウ」を伴う漢字がある。の三文字で、これらの「シンニョウ」の点の数は2つになっている。
新生児の名前に使える漢字は決まっていて、どんな字でも好きに使えるというわけではない。ひとつの例が挙げられた。「“つきへん”に“星”と書いた出生届けが出された。夜空に月と星が並んでいたら明るい。そこで“あきら”と読ませたかったのだろう。しかし、その文字は人名用漢字にはなかったので、却下された。」実はこの「腥」という漢字は、古い時代から中国で「なまぐさい」という意味を持つ。このときの「月」というのは「にくづき」であって「つきへん」ではない。

IT機器における漢字

次に、IT機器、コンピューター、パソコン、携帯電話で使える漢字について。
一番の根幹にあるのは1946(昭和21)年、アメリカの占領下において定められた「当用漢字」。当時、GHQとしてはローマ字で日本語を書くことを推奨していた。もしくは「ひらがな」「カタカナ」などの表音文字で日本語を表記することが望ましいと。この、将来的に漢字の使用を全面的に廃止しようとする働きのもと、法令、公用文、新聞、雑誌において「だが、当面の間、用いる漢字も必要」ということで1850種類、使える漢字の種類とそれぞれの字体を簡略化するという二本立てで「当用漢字」というものが決められた。
そして、1981(昭和56)年に「常用漢字」にバージョンアップ。この段階で95文字増え、1945文字になった。先の当用漢字が「制限」であったのに対し、常用漢字は「目安」であった。目安ならば、別に守らなくてもよい。実際に「拉致事件」の「拉」という漢字は、常用漢字には入っていなかったが、使用されていた。目安なのだから、各新聞社独自の判断でよいということだ。
この年は東芝が日本最初のワープロを発売した2年後であった。日本最初の日本語ワープロは、今の電子小型ピアノくらいの大きさで630万円というとんでもない価格だった。月々8万円もあれば十分暮らしていける時代に、そういう電子機器というのは一般の人からは遠い、別世界のものだった。しかしその後、1990年代にかけて日本の電子機器の価格はどんどん下がり、機能はどんどん増えていった。それに伴い、ワープロ、パソコンで日本語を読み書きする人が急速に増え、手書きの漢字に対する認識は大きくかけ離れていく。

例えば、「嵐の闇夜に訪ねてきたのは誰だ」という文書があったとすると、かつて「嵐」「闇」「誰」は常用漢字に入っていなかったため、旧国立大学の入試問題では「あらし」「やみ」「だれ」と読み仮名をつけなければならなかった。受験生が読めないわけもないのに。このような特定の業務においては、辞書を引くが、一般の人の場合、パソコンで表示できる限り、どんな漢字も自由に使う。コンピューターで使えるのは、6355種類。JISの第一水準、第二水準を合わせると、「常用漢字」の3倍以上の漢字が電子機器では使える。ユーザは常用漢字であろうがなかろうが、おかまいなしにどんどん使う。

やがてその漢字を使うということに対する認識、目安は、IT機器の普及、浸透とともに変化していく。それが今回の常用漢字改訂の最大の理由だ。今回の改訂の主要な骨子は追加された196文字。必ずしも手で書けなくても、漢字を使って書いたほうが意味の判断がしやすく、誤読が起こらないことを基準とした。例えば「金メダル剥奪」という文字。剥が書けなくても、「はく奪」と書くのはみっともないというイメージを持つ人が多くいた。意味と使い方が正しく理解できるなら、必ずしも手で書けなくても漢字を使ったらいいじゃないかということだ。
また、これまでは「固有名詞は入れなくていい」という原則のもと都道府県名は、全部外されていた。さらに、動植物の名前はカタカナで書くという、公用文の表し方の規定があったため鹿児島県、熊本県のシカやクマですら、カタカナで書くことになっていた。奈良の「奈」、大阪の「阪」、岡山の「岡」も意外なことにこれまで常用漢字から外れていた。それは、「阪」や「岡」を使う一般名詞などほとんどなく、一般の言葉をつくる造語力があまりないという理由からだった。しかし、今回の改訂でこれらを含む都道府県名の漢字の11字も収録された。

しんにょうの点の数

現在、ほとんどのドキュメントはコンピューターで入力される時代となり、JIS字形との統一ということでの改訂もなされた。ここで大きな議題となったのが「シンニョウ」の点の数。「邁進」とパソコンで入力すると「邁」はシンニョウの点が2つ。「進」は1つ。これは携帯電話でも同じ。常用漢字をめぐって、「シンニョウ」の点の数は、随分色々なところで問題となったという。「邂逅」これはどちらも2つ。このように、コンピューターの中では、ある漢字は点が1つ。ある漢字は点が2つ。というように混在してしまっている。そのこと自体、これまで世間では問題にされてこなかったが。

「シンニョウとはいったいなんぞや」と、阿辻先生はスクリーンに「逆」という漢字で例を示す。「逆」は、甲骨文字においては、人間の足跡と頭と足の位置で、“こっちへ歩いてくる”という意味を示している。「逆」という文字はあべこべという意味ではなく、“こちらへ進んでくる人を出迎えに行く”という意味を持つ。四つ筋の象形文字の左半分を独立させたのが「ギョウニンベン」。「ギョウニンベン」と足跡をくっつけたモノがやがて「シンニョウ」となる。「シンニョウ」というのは、“道を人が歩く”という形である。「シンニョウ」の点の数は様々で三点シンニョウのものもある。では、何が正しいのか?正解などない。「シンニョウ」は様々な書き方ができたということなのだ。

かつて、中国では科挙という人類史上一番難しい試験といわれる、高級公務員採用試験のようなものが行われていた。書く者とそれを読んで採点する者がいるので、一つの漢字に複数の書き方がある異体字に対して基準が必要となり、辞書が作られた。2文字セットで上は通(社会で使ってよい字体)、下は正(学問的に由緒正しい字体)と、異体字を並べて弁別したものだ。1716年、康煕帝が史上最高の辞書を作れと命じ、「康煕字典」という辞書が5年の歳月をかけ完成した。それは間違いだらけのとんでもない辞書だったが、皇帝の命令で作ったというその経緯から“史上最高の辞書”という権威を与えられ、以降は、康煕字典が漢字のスタンダードとなる。この康煕字典の「シンニョウ」は、点が2つだった。そのため、中国、日本では「シンニョウ」は原則点2つ。戦前の日本の漢字のシンニョウは2点だったのだ。

戦後、1946年に「当用漢字」として1850種類の漢字を使うこととされたが、この段階ではそれぞれの漢字をどのようなカタチで印刷するか、どのように音読み、訓読みするかは調査中となっていた。官報告示では「シンニョウ」は点2つで出されていたが、調査の結果1949(昭和24)年のそれぞれの字体、音訓表では点が1つになった。ここで初めて「1点シンニョウ」が登場。だがそれは当用漢字に入ったものだけであって、入っていないものに関してはなんの指示もされていなかった。戦後の混乱が落ち着いた頃、もっと漢字を使っていいんじゃないかとなり、漢字は滅ばなかった。1981(昭和56)年11月に95文字が純増され「常用漢字」として1945文字に増えた。追加された中には「遮」「逝」が「シンニョウ」を持つ漢字として加えられたが、それらは1点シンニョウである。それまでは、2点シンニョウのままで残っていたが、常用漢字に入る際に、他と揃えるために1点シンニョウとなった。

1978年には電子機器、コンピューターで文字を使う基準として「JIS漢字表」が作られた。1983年にはX0208 という規格もできる。よく使う漢字が第一水準、特定の用途に使われるものが第二水準というように二つのレベルに分け、閖上(ゆりあげ:地名)など、特殊だがコンピューターで書けなければならないものを第二水準として6355字。こういう文字を混ぜ込み、やがてJISは第三水準、第四水準まで作られた。
2000年にはバージョンアップし、X0213という規格に変わり、2004年にさらにバージョンが変わた。JIS2004のコードでは字形を変更している。
「シンニョウ」は常用漢字に入っていないものは全て点2つに。さらに「そ」「そん」「なぞ」は点2つに改訂された。ここで大きな問題は「なぞ」である。「迷」は小学5年生で習う漢字で、1点シンニョウ。中学・高校になって出てくる「なぞ」は2点シンニョウ。子どもたちも、先生も、なぜなのかがわからない。常用漢字に入るのをきっかけに「シンニョウ」は点1つにしようという要求があり、今でもその要求は強い。
「シンニョウ」の点を1つにした方が整合性は取れるだろう。しかし、教師が「ピラミッドのなぞ」という副教材を作ったとしたら…。パソコンの現在のOSでは、は絶対に2点シンニョウ。それでは、印刷された教科書では点が1つで、副教材では点2つということになってしまう。常用漢字を点1つにすると、常用漢字のカタチを電子機器では表せない。また、もう一つの問題は、電子辞書、携帯電話ではOSのバージョンアップができず、表示される漢字のカタチと常用漢字のカタチが違うということが起こる。せっかく電子辞書で勉強したのに、試験では書き間違うということもあり得る。そこで委員会が考えた結論は「最大多数の最大幸福」。IT 機器の普及・浸透によって漢字に対する認識が変わり、コンピューターとの整合性を取ることとなった。

これまで、辞書に印刷されている通りのカタチが正しいと教えられてきたが、それは果たして正しいのか?古い写本を調べていくと「シンニョウ」は、手で書く時には基本的には1点シンニョウ。これを木版印刷する際には、2点シンニョウで彫られている。日本では当用漢字を使用し始める時、印刷する時点で1点シンニョウを作った。シンニョウは1点でも2点でも同じ文字。手で書く時どちらで書いても間違いではない。どちらかというと、手書きで2点の方が間違いだ。が、なかなかそうも言えない。本当はどちらでもかまわない。常用漢字表では、許容字体という言葉で2点シンニョウの後ろに( )で1点シンニョウのカタチを表に出している。「“シンニョウ”の点の数は、荒っぽい結論を出すと、どちらでもかまわないということだ。」と阿辻先生は締めくくられました。

IT機器と文字には深い関わりのあるモリサワは、電子書籍やクラウドといった今後の展開において文字の変化、進化と常に向き合っていかなければなりません。
今回の講演のように、文字についての深い造詣あるお話からは学ぶ事が多く、私たちにとって大切な文字に対し新たな視点が生まれ、また、新たな使命を感じました。ご参加いただいた皆様にとっても、貴重な講演となったことでしょう。
補足:このwebレポートで表示されているシンニョウは1点ですか?2点ですか?
Webになると各々が使用しているパソコンの環境によって、また表示される字体が違っている可能性があります。
本文中の赤字で表して文字は画像にしていますが、それ以外はテキストですのでお使いのパソコンのOSや、個々の設定で指定されている書体によっても1点だったり2点だったり様々なことと思います。
これもどちらも正解ということで。。。