モリサワ文字文化フォーラム

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フォーラムレポート

第1回 - 冷泉家の歴史と文化

株式会社モリサワは、昨年秋に完成した新本社ビル内の大ホールにて講演会やシンポジウムなどを定期的に催していく「モリサワ文字文化フォーラム」を発足させました。印刷/WEB/ 出版/ デザイン業界の方々を対象とし「文字文化」への探究心を、新たな世代へ受け継がせる事業の一環として、また業界活性化を目指す事業の一環として設立したもので、今後も幅広い視野のもと定期的に活動を行っていきます。

第一回目は3月16日に開催。新社屋落成記念特別講演として、冷泉家第25代当主冷泉為人(れいぜい・ためひと)氏を講師に、また聞き手として、モリサワカレンダーの監修者でもある東京国立博物館名誉会員西岡康宏(にしおか・やすひろ)氏をお招きし、第1回モリサワ文字文化フォーラム「冷泉家の歴史と文化」を開催いたしました。その様子について、レポートいたします。

「江戸時代の地図に記されている冷泉家」

為人氏が用意された資料・江戸時代の公家町の地図の屋敷のひとつに「冷泉殿」という記載がある。現同志社大学に隣接する位置、冷泉家は、慶長11(1606)年にこの地に住まうことを命じられた。天明8(1788)年の「天明の大火」により屋敷は焼失したが、寛政2(1790)年に再建され、現在に至っている。つまり200年以上前に建てられたお屋敷に現在も住み、多くのものを受け継ぎ、守り続けているということになる。阪神淡路大震災の折には解体工事中であったため、総務省からの耐震構造の要請を受け、工事費が増大し解体修理には足かけ7年。『明月記』の修理も同時に行われており、それらにまつわる費用、ご苦労話などをユーモアを交えお話いただいた。また、パリ、ニューヨークでの展覧会が高い評価を受け、国内での展覧会も成功を収めたことは、冷たい泉と書いて「れいぜい」と読むことを多くの方に知っていただく機会となり、約10年の莫大な費用を必要とした修理を無事終えることができた一因であることも付け加えられ、冷泉家の歴史へとお話は進んだ。

「和歌の家・京都冷泉家」

冷泉家第25代当主 冷泉為人氏

冷泉家は最初の勅撰和歌「古今集」の選者でもある、平安・鎌倉の歌聖と仰がれた藤原俊成(しゅんぜい)、定家(ていか)父子を祖先に持つ「和歌の家」である。冷泉の名を名乗るのは、定家の子・為相(ためすけ)からであるが、為相から現代の為人(ためひと)まで、25代約730年間、そしてその前にも御子左家(みこひだりけ)としてのほぼ280年の長い歴史がある。したがって、冷泉家は千年続く「和歌の家」ということになる。現在は、俊成・定家から800年と言い習わしているとのこと。
冷泉家の始祖・為相は、弘長3(1263)年に父を藤原為家(ためいえ)、母を阿仏尼(あぶつに)として生まれた。父・為家は御子左家の荘園と「和歌の家」としての多くの歌学書・歌集、つまり俊成、定家、為家などが記述したものや、書写したり収集したもの、典籍類を譲るということを記した譲り状、今で言う遺言状を残しているが、相続争いのような事もあり、弘安2(1279)年に、母・阿仏尼が鎌倉幕府に荘園相続の嘆願のため旅立った。この時阿仏尼が書いたものが『十六夜日記』である。簡単に事が進んだわけではなく、阿仏尼が嘆願に旅立ち、鎌倉で亡くなった30年後ぐらいに、為相の相続が正式に認められたそうである。こうした苦難の末、冷泉家の和歌守の歴史は始まったのである。

「一流の二流であること」

冷泉家が戦国時代をどのようにくぐり抜けてきたのか、詳細は不明であるが、6代目為廣(ためひろ)、7代目為和(ためかず)の時代には御子左家の典籍類をうまく活用し、能登の畠山氏、駿河の今川氏に世話になったと言われている。9代目為満(ためみつ)は、天皇からの勅勘をこうむり、堺に追われるも、住吉大社の娘と結婚し、徳川家康の調停により、慶長11(1606)年に京の公家町に屋敷を賜ることができた。公家町に居を移した冷泉家は当主の若死にが続いたことで位が上がらず、当時典籍類が冷泉家から出ていったとも言われ、冷泉家の蔵は御文庫として役人が管理するものとなったそうである。この時、霊元天皇が御文庫の300点ほどの典籍類をお持ちになり、書写され、これが国歌大観の元となっているそうである。時代の波をうまく乗り切ってきた冷泉家であるが、今日に至る事ができた大きなポイントは、江戸から明治への時期に京都へ残ったこと、すなわち東京に遷らなかったことである。京都御所の留守居役を仰せつかっていたこともあるが、京都から動こうとしなかったのは、冷泉家の家訓となっている定家の『明月記』にある「紅旗征戎わがことにあらず」という、文字通り、いわゆる権力争いに加わるな。和歌を詠む家、文学に専心しなさいということがあったのであろうと、考える。伝えるべきものを伝える、これに徹しきれば残れるのではないかと思っていると為人氏は話された。「一流の二流」であること。冷泉家は、御子左家の中で一格下であったことで、権力争いに巻き込まれなかった。公家の家格でも、どうしても天皇と共に江戸へ行かなければならない上位の格ではなかった。これらが冷泉家が守るべきものを守り続けるために功を奏したわけである。「一流の二流」であることは、ものを伝えていく時には重要だと思っている、と続けられた。「一流の一流は時代とともに歩まなければならない。故に、時代が変わった時には対応しきれないという事が起こりうるのではないか…」と。そして、最後にもうひとつ。女性が強い家系であること…とお義母さまとのエピソード、奥さまのお話などをユーモラスに付け加えられた。

「定家と百人一首」

合わせるということは、大事な行事、遊びであった。貝合わせ、香、根、など色々なものがある。鶏を合わせる闘鶏、相撲もそのひとつではないかと考えて良いであろう。そういう合わせを昇華し、秀歌撰、歌合わせに至る。定家の山荘があったとされる京都嵯峨野の中院町には、鎌倉幕府の御家人で、法然の弟子となって出家した宇都宮入道蓮生頼綱の別荘もあり、頼綱は定家の『明月記』にもしばしば登場し、定家、為家親子にとって極めて重要な人物であったと思われる。この蓮生入道から、別荘の襖に張る色紙に和歌を書くよう懇願された定家が、古今の秀歌を一首ずつしたためて蓮生入道に届け出たのが百人一首の原型ではないかと言われている。百人一首というと、馴染みのある遊びでは、乱暴な表現ではあるが「坊主めくり」ではないだろうか。なぜ僧侶が多いかというと、この時代、歌を詠む知識階級としては僧侶が多かった。というのも公家の次男、三男は出家せざるを得なかったからである。積極的に日本の芸術という観点から考えるならば、家を捨て出家しなければ、学問はできない、芸術を完遂することはできなかったということである。文学・芸術は命をかけるものであり、日本にはそういう場があったとも言えるのではないだろうか。百人一首の成立やテーマについては不明なことも多く、解釈も時代によって多様であるが、藤原定家撰の『小倉百人一首』が最も著名である。

「冷泉家時雨亭文庫」

為相が為家から相続したもののうち、荘園除く多くの典籍類は幾多の混乱を潜り抜けて現在に伝えられている。これらの典籍類を中心とした有形文化財や、「和歌の家」として伝えられている歌会、年中行事などの無形文化財、すなわち公家文化の継承保管を趣旨として、24代為任(ためとう)氏が、昭和56(1981)年に、財団法人「冷泉家時雨亭文庫」を設立した。財団には2009年現在、国宝5件、重要文化財が47件、点数にして1000点を超える多数の文化財が指定されている。

このあと、無形文化財にあたる冷泉家の年中行事をスライドにてご紹介、ご説明いただき、西岡康宏氏との質疑応答、会場からの質問などにもお答えいただき、満場の拍手の中、約2時間のフォーラムは終了となった。

4月17日から6月6日まで、京都文化博物館にて「冷泉家 王朝の和歌守展」を開催される。フォーラムでは見ることができなかった、冷泉家が守り伝えてきたもの、藤原俊成筆『古来風躰抄』、定家筆『古今和歌集』『明月記』など国宝5点をはじめ、300点以上の重要文化財が公開されるそうである。日本文化における仮名文字の美しさに触れるまたとない機会。為人氏のお話を思い出しながら、是非拝観したいと思う。