モリサワ文字文化フォーラム

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フォーラムレポート

第20回 - 筆蝕と曲線

2017年6月13日、株式会社モリサワは、第20回モリサワ文字文化フォーラム「筆蝕と曲線」を開催いたしました。

圧倒的な書の表現世界を持ち、書を通じて現代を鋭く読み解く書家の石川九楊氏と、タイポグラフィを基軸とした、さまざまなデザインプロジェクトで活躍されるグラフィックデザイナーの大原大次郎氏をお招きし、「書の表現」をテーマに、それぞれご講演をいただく二部で構成、質疑応答を含む約3時間のフォーラムとなりました。

第一部 曲と線 - 大原 大次郎 氏 -

デザインワークや映像制作に従事するほか、ワークショップやパフォーマンスを通じて、言葉や文字の新たな知覚を探っている大原大次郎氏は、この日緊張した面持ちで登壇。大原氏が非常に衝撃を受けたと語るのは、ブックデザイナーであり、タイポグラファーでもある平野甲賀氏の「僕の字はラップのようなものだ」という言葉。「文字には形がある。そして、リズムがあって、呼吸があって、抑揚があって。声に出した時の音調、口触りやキャラクター性などが含まれている。形の中に声があり、人それぞれのリズムやフローがある」といい、そういった視点から文字を解釈することが、大原氏の制作の糧になっている。「人にはさまざまな“クセ”がある。話し方、間合い、うなずき方、聞き方、見方、考え方…この“クセ”を肯定していくこと、人のクセって何だろうと考えるようになった」と続け、人の“クセ”について解説。続いてスライドに映るリンゴの写真を指し、「これを絵に描いてくださいと言うと、輪郭から描く人もいれば、大まかなシルエットで捉える人もいます」と大原氏。

人がモノを見てから、認知するまでには1秒必要で、細部も含めて全体を捉えるのには10秒程度かかるという。その事実を体感してもらうため、スクリーンに数秒だけ画像を映し、「いま見たものを絵に描いてください」というワークショップをよく行っているそう。詳細をどれくらい認知できていたのか、またその違いを示すため、1秒目、3秒目、5秒目、10秒目と、描写を秒単位で追った2人の事例をスクリーンで紹介。同じモノを見ていても、見る箇所と描いていくクセは人それぞれなのだと解説した。自身の制作、発見していきたい領域では、それぞれのクセ、ズレというものを楽しみ、それを文字の世界、絵の世界へ転化できないかと考えていると語った。

「次に、目ではなく、耳を澄ませてください」と、十数人のさまざまな人が“こんにちは”と言うのを録音したものを流し、続けて“大原大次郎です”という録音を流した。固有名詞を話しているのは誰かというのを決定づけるのはもちろん名前だが、声色、キャラクターなどが異なれば、名前を越えたり、壊したり、意味を剥奪することも起こりうる、と解説。さらに、道具にもクセがあると言い、身体に馴染むもの、馴染まないもの、ものづくりをする上で、道具の呼吸、間合い、クセと付き合っていくことはモノをつくる過程においては必ず生じる会話だと思うと語り、「鉛筆」「ペン」「筆」「チョーク」「万年筆」という五つの「文字を書く時に生じる道具の声」を流した。「それぞれに音があるのは当たり前だが、こういう音を聞きながら文字を書いているわけで、音を感じながら、つまり、手と現れてくる文字と会話しているというように思っている。声一つとっても息の吸い方、吐き方で変わる。息という言葉には慣用句が多い。息が合う、息を殺す、息が通う、息を潜める…。息をすること、生きることと、つくること。僕にとって、息の慣用句は文字を書くプロセスに転用できる言葉が多いと思っている」と話しながら、続いてのパフォーマンス『朗読』へと進んだ。

大原大次郎氏(グラフィックデザイナー)

大原氏の「声で描くタイポグラフィ」という音声パフォーマンスは、普段ラッパーのイルリメさんと音楽家の蓮沼執太さんによる3名のバンドで行っているが、今回は初の独演。3人で作った『曲と線』という詩を、音楽ソフトで曲に落としこんでいったという。そのアレンジは、順番通りに読まない、読み方もいろいろ、さらに切り刻んでいる、など。ちょっと変わった朗読になりそうだ、と会場は大原氏の世界へと誘われていった。 1回目は、リズムが刻む朗読。5分ほど耳を澄ませていると「歌としゃべりと朗読、それぞれ境目があると思う」と話し始めた大原氏。人それぞれの言葉がずれ込んできて、言葉の意味が崩れていくのだ、と解説した。「文字を書いているのではなく言葉を書いているとすると、言葉そのものにも意味が強く入っていて、言葉にも重みがあって、自分はその重みに向き合えているのかと考えるし、文字の重さに言葉の重さが含まれていると感じる。ロゴマーク一つとってもその重みが含まれていると思う」と深い思いを語る。次にメロディーが加わり、音楽性が少し入っているという2回目の朗読へ。終えて大きな吐息を漏らし、「よくできたな俺。頑張りました…」と呟く大原氏に会場からは温かな笑いが起こった。流れていたのは3人で作った“起点”という曲。途中、点や線に対する賛歌だと曲の説明を加えた。さらに、人には伝える時のクセがあり、伝え方一つとってもまったく違う、ということを実感してもらうためのワークショップ『誘導画』を紹介。これは、画像を見た人が見ていない人に、言葉と身振り手振りだけで絵を説明するもの。繰り返すことで伝え方が上達し、そのことで絵の精度が上がっていくという。言葉が上達していくことで絵の精度が上がっていく。「言葉の精度でグラフィックの精度が上がっていくのだから、チームで何かを行なっている人たちは、伝え方の細やかさが上達していくと、よりうまくやっていけるはずだ」と話しつつ、さらに音楽性が強くなった3回目の朗読へと続けた。

会場からの拍手に「初めての試みをこんな舞台でするということもあるでしょうが、嬉しいです。ありがとうございます。声を発するというのは勇気がいると改めて思いました」「描くことでしかできないことと、話すことでしかできないことと、こういう舞台でしかできないこと。それぞれにTPOがあって、そのゾーンをチューニングしていかなければならない。普段、話でのコミュニケーションを達者にやっていないものにとっては、今回は難題でしたが、苦手だからと遠ざけていると、描く方でも何かがこぼれ落ちていくようにも感じていて。文字の骨みたいなものを探っていく時、いざ骨を探ろうとすると、骨って生きている限りなかなか触れられないモノで、気配というか、感じ取るしかできないものですが、それが重心だったり、身体のバランスだったり、核をつくっているとするなら、文字の中にある声や骨を探っていかなければならないと感じている。普段やり慣れていることではなく、慣れていないことで、恥ずかしさも含めて感じてもらえれば。現在進行形の私の表現はこういうものだというのを感じ取っていただければ幸いです」と締め括った。

第二部 終わりなき「書」の表現世界 - 石川 九楊 氏 -

現代芸術の最前線で創作活動を展開され、“書は筆蝕の芸術である”ことを解き明かし、書の構造と歴史を探求し続ける石川九楊氏。「書というのは、とてもわかりやすい世界。これほどわかりやすいものはないのに、多くの人が書はちょっと…と、書そのものに入っていただけないことがある。その原因は何なのか。それは普通に、常識的に流れている“見方”というものが間違っているから。そこを改めれば、書は誰でも覗ける、単純明快な世界。ピアノを弾いたことのない人、絵を描いたことがないという人はいても、字を書いたことがないという人は少ない。字というのは、ほとんどの人が馴染んでいて、ほぼ日常的に接している、わかりやすい表現」と、壇上に用意された黒板の前に立った石川氏は、白いチョークを手に“書がわからなくなる三つの見方”について語り始めた。

石川九楊氏(書家)

第一に“うまいのか、へたなのか”と書に接近すること。これは表現の世界ではなく、小学校の低学年の頃の教育の進度、学習段階についてのものであって、書のことではないという。第二に“なんと書いてあるか”と考えること。書というのは“どのように”書いてあるのかを見ることが重要であり、言葉をどのように書いているのかが書の根幹だという。「“どのように”というのは、言葉を書き進めていく「速度」「角度」「深度」のこと。書き進む力、つまり一筆一筆の力がどのように振る舞うか。つまり、スタイルということになる」と石川 氏。良寛の『山』という字を例に実演した。筆先で入り、宙に高く逃げ、軽く着地し…と、手を筆に見立て、そのプロセスを示しながら、この姿が良寛の書の姿だと解説。「この黒板、僕のためにモリサワさんが購入してくださったんですよ」と会場の笑いを取りつつ、黒板を波線で表現し、その上にのるチョークの絵を描く。チョークは黒板に削り取られ、ここに『触覚』が生まれるのだと述べ、「筆記具と対象の関係、この触覚的関係がどのように速度的に、角度的に、深度的に展開していくかというのが書の世界だ」と論じた。

また、その姿をまったく変えることなく3,500年の歴史を持つ筆は、色々な可能性をもった道具であること、白板がダメなのは起筆をはじめ筆が滑るからだという話を交え、「なんと書いてあるかわからなくても書の世界が読めることがある。山の字である以上に、山の字を書いたその書きぶりのなかに、その人がどのように振る舞っているかが見えれば、書として鑑賞できる。それは簡単なこと。なぞればよい。なぞれば、その書きぶりはわかる」と石川氏。
第三は“造形的に見ない”こと。「長い、短い、太い、細い、大きい、小さいというのは単なる結果であり、見るべきは、書いていく力が大きく伸びていっているのか、萎縮して小さくなっていっているのか、強く奥に向かっているのか、軽く書き流して次へ進んでいるのか、そういう姿、プロセスを見ることが重要で、つまりなぞればよいのだ」と繰り返す。 

これを実践するため、スクリーンに代表的な楷書、『九成宮醴泉銘』と『雁塔聖教序』の二つを映した。「指でなぞって、どういう筆触りかというのを感じ取って書いてみると、リアルにその差がわかる。読めなくてよい、一画だけでもなぞってみれば書は見えてくる。書というのは、触覚をベースとした芸術であって、筆記具の尖端と対象との間に生じる触覚、その手応え、手触り、そういうものがどのように展開しているかを見るもの。」と熱く語る。「絵のように見る今までの常識を捨て、触覚的な、手触り的な、筆触り的な観点から見ていけば誰でもわかる。自分で筆をもつ機会が増えれば増えるほど、さらによくわかるようになる。このことを導入として理解いただいたら嬉しい」と、作品紹介へ移った。

作者たる石川氏も初めてお目にかかるという作品が、7月5日から上野の森美術館で開催の「書だ!石川九楊展」で展示される。そのうちの一つ、全部つなぐと85mという大作は、37年前に書かれた『エロイエロイラマサバクタニ又は死篇』。時代とともにありつづける一つの表現として、書があるためには、いかにも書だという書らしさ、書の情緒にもたれかかる“白い紙に黒い墨で何かよい言葉を書く”という表現では納得できず、「ここに本当に言葉が書かれてある」という世界を表現するため、グレーに染めた紙に淡墨で、詩ではなく言葉の断片をコラージュすることによって一つの世界を描き出す作品づくりを始めたという。書にだってこんな姿が描ける、と10年間続いた作品づくりだが、いつも同じような形で作品ができるようになり、“次々にできあがることは退廃である”と考えるようになった。むしろできていないものを探し、それをなんとかしようとするところに作家の力が発揮されると考え、白い世界へ戻ることにした。「一度、灰色の世界をくぐって戻った白い紙は、白には違いないが、ただ単に思わせぶりな世界をつくる白ではなくなっている。書きぶりも変化した。速度を限りなく遅くすると、時間というものを自分で自由に操れるようになる」「書が現代の人の表現になるためには、デザインのような姿をしていてもかまわないというところへ至った」「ゆっくり書くことで時間と空間は繋がっているということが見えてくる。デザイン的な方向へ、次の段階へと開放され、そういう可能性にまで書は拡がっているのだ」と力説した。

つづいて、『歎異抄』、「源氏物語五十四帖」に「雲隠」を加えた『源氏物語五十五帖書巻』、『千字文盃』、“9・11”や“3・11”事件を扱った最近作など、さまざまな作品について解説。石川氏は、「文字が奇妙な形になって、自分でも痛々しい状態だと思うが、そういう状態になることによって、初めて今の時代を捉える姿になるとするなら、読めることは犠牲にさせてもらって、こうならざるを得ない。それは時代が悪いと思う。もう少し率直な時代になれば、字も、もう少し誰もが読める形で現れてくる。それは間違いなく」と話し、「書 の理想は、誰もが普通に字を書き、そのどれもが美しい。そういうゴールが書にはあるというのを目指してやっている。いわゆる今ある書道の姿ではなく、書というものを開放してやると、まだまださまざまな可能性があり、自由にやれる余地があるということを感じ取ってもらえれば嬉しい」と、講演を終えた。

そして、フォーラムは最後の質疑応答へと移り終了した。今回の大原氏の録音を流す「朗読」と石川氏の「黒板とチョーク」による表現は、印象に残る新しいスタイルだったと言えるだろう。