文字を組む方法

ページメニュー

第二回    

日本語組版の基本は「枡目組版」とよばれる正方形のボディを枡目のように並べていく組み方といわれています。しかし、江戸時代の書物を見ると、もっと自在に文字が並べられています。
きれいに箱の中にぎっしりと埋まるように書かれたものや、絵と組み合わせて絵の隙間を埋めるように書かれたものもたくさんあります。
平安時代には「散らし書き」や「分かち書き」といった、空間に配置しつつ揮毫 [きごう] する手法がうまれ、日本の美意識を先導する役割を果たしたともいわれています。では、なぜ明治以降の近代活字印刷では、枡目状に整然と並べる組み方が採用されたのでしょう。印字技術からの検証は回を改めて話すとして、今回はそれを文字文化の側面から見てみたいと思います。

母語の
読み書き

ことばを話すのは人間の本能だといわれています。本能ということは、異性に惹かれたり、食べられるものを嗅ぎわけたり、そういうことと同じだということです。だから、誰もがことばを使ってコミュニケーションします。しかし、それを文字に置き換えてやりとりできるかといえば、また話は違ってきます。文字を持たない無文字社会は、いまでもたくさんあります。
文字は後天的に獲得するものです。小学校の国語の時間を思い出せば反論する人はいないと思いますが、識字率が高い日本にいるとつい忘れてしまいます。何ごともなく"読み書き"を手に入れた気になります。
「識字」とは、幼時に自然な状態で習得する言語(母語)の読み書きができる能力のことをいいます。日本人の識字率は99.8パーセント。これは、ほとんどの人が日本語を話すことにも大きく関係しています。たとえば、移民の多いアメリカ合衆国では、母語でみると約80パーセントの識字率ですが、公用語の英語の読み書きは50パーセント程度の人しかできないという調査結果もあります。
ユネスコによれば、全世界の識字率はおおよそ75パーセント。四人にひとりは文字が読めないのですから、文字のかたちや文字の並べ方まで読み解くことができる人は、ごくわずかだと考えていいでしょう。文字による表現は、読み手のスキルがまず問題になります。

漢字の
伝来

漢委奴国王印印影
約23ミリ角の金印
(福岡市博物館蔵)

いまではほとんどの人が文字を読み書きできる日本ですが、日本語はもともと文字を持たない言語でした。日本という名前ができる以前のことですから、「倭」「倭語」と言った方が適切ですね。倭国は無文字社会だったのです。
倭に古代中国から文字が入ってきたのはいつごろでしょう。
ぼくは、おおよそ二千年前とおおざっぱに考えています。
文字はことばと対になる記号として輸入されたのではなく、器や鏡などと一緒に、文様として、まず人の目に触れたものだと想像できます。漢字が書かれた土器や剣、鏡が出土したとしても、それが意味を伝える文字として機能したのか、それとも単なる装飾として見られていたのかを見極めなければなりません。
漢字がいつごろやってきたのか、通説では、『後漢書』に記されている、倭の奴国の王が後漢の光武帝から「漢委奴国王印[かんのわのなのこくおういん]」を与えられたころ(建武中元二年(57年)ごろ)とされています。印を与えられたことは、奴国が後漢の冊封体制下に入り、中国と君臣関係を結んだことをあらわしています。中国の支配下に入り、文書を交わしたり交易をしたりするためには、文字を使わねばなりませんでした。つまり自分たちの母語を読み書きする前に、漢語を読み書きする必要が生じたということです。
四世紀ごろ、主に百済(朝鮮)からの文物によって、音と意味をあらわす記号(文字)としての漢字がもたらされたことは、『古事記』や『日本書紀』の記述から推測することができます。しかし、七世紀ぐらいまでは、文字を使う人(一部の政府高官や僧侶)は、倭語を話し、漢語を書いていたと思われます。ごく少数のエリート以外には、まだまだ漢字はただの文様や呪符にすぎませんでした。

和文表記
までの
道のり

日本語を漢字で書き表したものに「万葉仮名」があることをご存じの方も多いと思います。万葉仮名とは、倭語を表音表記する漢字のことをいい、『万葉集』に多く用いられているところからこの名前がつきました。漢字一字に一音をあててそのまま読み上げると倭語になるものや、漢字の意味を取って同じ意味を持つ日本語の発音を当てはめるものなどいくつかの使い方があります。
自分たちのことばを書き表す文字がないのですから、唯一知っている文字である漢字をあてて記述するのは自然のように感じますが、ぼくは、倭人が自分の言葉を記すためではなく、大陸や半島から来た渡来人が、倭語をメモするために(あるいは、学習するために)用いた方法ではないかと考えています。「ブッダ(インド語で真実に目覚めた人の意)」を「仏陀」と表記したり、サンスクリット語の「プラジュニャーパーラミター」を「般若波羅密多」と書いたり、外国語に漢字をあてて書くこと(「音写語[おんしゃご]」といいます)は、中国では古くから行なわれていることでした。ですから、仏教と一緒に日本に音写の方法が伝わっても不思議ではない気がします。たぶん、万葉仮名も音写語の一種として発達したのでしょう。とにかく、これで、ようやく日本語の表記が可能になりました。

万葉仮名文書(762ごろ)
正倉院蔵
和可夜之奈比乃可波
利波於保末之末須
美奈美乃末知奈流奴

わが やしなひの かは
りには おほまします
みなみの まちなるぬ

かなの
誕生

日本語にはカタカナとひらがな、ふたつの仮名があります。
カタカナは写経僧が漢字を書き写すときに、偏[へん]や旁[つくり]の一部だけを使って書いたのがはじまりで、漢字の代用として使われます。また、漢文を読み下す際につける「ヲコト点」などにも用いられます。どちらにしても、漢文のために使われたものなのです。
一方、ひらがなは、万葉仮名が行書、草書を経て、さらに崩れていったものといわれています。こちらは、和文を表記するために用います。ひらがなは、日本語表記のために生まれた、はじめての文字ということができます。
まだ漢字のかたちを保っている万葉仮名を「男手」といい、すでに漢字のかたちを残さないほどに崩れた文字、ひらがなを「女手」とよびます。また、仮のものである「仮名」に対して、漢字は「真名」といいます。
この、真の文字である漢字と仮の文字であるひらがな、漢字 = 男、ひらがな = 女、の関係は、こののちの日本文化に大きな影響をもたらします。
紀貫之らが編集した『古今和歌集』の真名序と仮名序の二本立ての序文と、「をとこ(男)もすなる日記というものを をむな(女)もしてみむとてするなり」ではじまる、同じく紀貫之の『土左日記』は、文学史上だけではなく、日本文化史においてもとても大きな事件でした。
このことを書くと長くなるので機会を改めますが、日本の主たる才能は、この時代に、和漢を対立させるのではなく、和漢を併記することを選択したことだけ述べておきます。
ひらがなの成立はおおよそ十世紀の出来事で、漢字伝来から千年がたっていました。そして、ひらがなからおおよそ千年後が現代というわけです。

漢字からひらがなへの変化の一例

紀貫之が書いたと伝えられる「高野切[こうやぎれ]古今和歌集」第一春歌上 第九~十首 十一世紀中頃、遠山記念館蔵

漢文組み
の成立

千年単位で話していると明治もそう昔のことではありません。ひらがなからざっと千年たったあたりに本格的な鋳造活字が日本にやってきます。金属活字自体は千六百年頃に一度日本に伝来しているのですが定着するにいたらず、わずか50年ほどで印刷の表舞台から姿を消しました。このとき(文禄から慶安年間)に出版された本を「古活字版」といいます。古活字版については、回を改めてお話しします。
幕末から明治初期にかけてが近代活字の揺籃期[ようらんき]であり、その後瞬く間に普及・発展していくのですが、活字組版は、江戸の出版文化を支えた木版による整版印刷の文字表現とはまったく違っていました。
ようやく本題に近づいてきました(長い道のりでした)。組版のお話です。
一枚板に文字を彫る整版印刷では、漢字仮名交じりの流麗な連綿体(つづけ字)が印刷され、江戸の町には、高い読み書き能力に支えられた、華やかな出版文化がありました(江戸時代の識字率は50パーセントとも60パーセントともいわれています)。
それが、活字によってひと文字ひと文字が分断され、均等ピッチで並べられたのですから、活字印刷にかわった当初は、さぞ読みづらかったことと思います。
漢字は、一字、一音節、一単語ですからひと文字ずつ孤立させて書きます。しかし、表音文字であるひらがなは、複数の文字を合わせて意味の固まりをつくります。また、ひらがなは万葉仮名の崩し字ですから、誕生以来、連綿体で書かれつづけてきました。しかし、活字技術の導入でひらがなを分断せざるを得なくなったとき、ひらがなを漢文のように組むことを思いついた人がいたのです。誰だかはわかりませんが、これは、超弩級のアクロバットだったと思います。

漢文組み
の現在

日本は和風と唐風、両方の文化を育ててきました。それは文字文化でも同じことです。平安王朝の女手の文化と、仏教や武家社会にはぐくまれた漢文の文化です。女手は主に歌や文芸、芸能、生活を記し、漢文は政治、思想、宗教を記述しました。
両方を併存させたとはいえ、一方は「真名」でもう一方は「仮名」です。日本人の心の中に和文より漢文の方が上等だという気持ちが根付いても不思議ではありません。特に武士や上層の町人にとって、漢詩を詠み、純正漢文に長けることは教養人の証でした。
江戸期には候文[そうろうぶん]で書かれていた公文書も、明治には漢文訓読調にかわり、漢文訓読調の文章は普通文と呼ばれました。この明治の普通文は、現代日本語の基になったともいわれています。ですから、漢文風の組版が、今の日本語組版の規範になったとしても不思議ではないのかも知れません。原稿用紙も枡目組版もレイアウトソフトの組指定も、すべてこの「漢文組み」に端を発しています。
冒頭で日本語組版の基本は升目組版と述べました。しかし、明治のころは、今のように正方形を積み重ねる方式ではなく、字間をあけて組む「アケ組み」が大半を占めていました。本文サイズも今より大きく、版面のアキも広く、ゆったりとした組み方が主流でした。すべての文字にふりがなを振る「総ルビ」も多く、句読点にひと枡とらずに字間に埋め込む方法がとられていました。つまり、今とはまったく異なるルールで組版が行われており、より漢文の見え方に近い組み方がなされていたように思います。縦横にキチンと文字が整列して見えていたのです。 仮想ボディを基準とする文字設計を考えれば、枡目組版が基本でもいいのかも知れません。
しかし、日本語を表記する文字であるひらがな本来の態ではないということも覚えておいてください。均等ピッチは漢字の組み方なのです。
時代を経て、字間をあけずにベタで組むのが普通になり、今ではつめて組むことも特別なことではなくなりました。分断されたひらがなが、またくっつきたがっているのかも知れません。

2007.5.7 (第二回 了)

一覧へ戻る

枡目組版をベースにしたレイアウト用紙
日本のグリッドシステムとして、本家の「Grid systems」(ジョセフ・ミュラー=ブロックマン著)にも紹介されており、現在のレイアウトソフトにも応用されている。

夏目漱石「吾輩は猫である」初版(明治38)の組み(図版は復刻版)
二分アケ組みで、句読点を字間に埋め込み、拗音や促音も大きく、音引きなども含めて行頭禁則にはしていない。それによってタテヨコで文字がきれいに揃う枡目組版を実現している。