書体見聞

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第三回 リュウミン

第三回 リュウミン

写植による本文組みを目指して

1960 年代の主力明朝体、中明朝体ABB1(1968 年の手動写植機のパンフレットより)。

モリサワを代表する明朝体、リュウミンの開発が始まったのは、1960年代のこと。これには、当時の写真植字をめぐる状況が関わっている。
日本の印刷文字は、戦前から戦後にかけて活字が主体だったが、オフセット印刷の浸透とともに写植の普及が進んでいった。しかし、書籍などの本文組みの分野では長く活字の時代が続いており、モリサワは依頼を受けて活字メーカーの明朝体の写植機文字盤も製造していた。
当時の写植の明朝体に対して、出版社からは「活字に比べて力強さに欠ける」という評があったという。
独自の本文用明朝体を望む声は社内外ともに大きく、モリサワは新しい明朝体の開発に着手した。この明朝体の原型になったのが、活字メーカーの森川龍文堂(もりかわりょうぶんどう)から譲り受けていた書体、新体(體)明朝である。

森川龍文堂と新体明朝

モリサワが森川龍文堂から譲り受けた「新体明朝」の見本帳。

森川龍文堂は1902年(明治35年)に大阪で創業された会社で、金属活字鋳造と印刷機器販売を営んでいた。
当時の活版印刷業界では、種字彫刻師が彫った種字から活字母型を作り、それを活字に鋳造(量産)して、印刷所に提供していた。
森川龍文堂は金属活字鋳造を行うとともに、種字彫刻師を招いてオリジナルの活字母型も作っていた。その1つが戦前に定評のあった新体明朝のシリーズだ。
その後、活版印刷業界は、戦時中の活字の金属供出と空襲により、大きな打撃を受けた。戦前の活字は、戦争によって多くが失われてしまった。
1959年、モリサワの創業者で当時社長であった森澤信夫は、かねてからの知人であった森川龍文堂の第二代社長、森川健市氏から後世にのこすべく新体明朝の見本帳を託された。
この見本帳にある四号サイズ(約14ポイント)のやや細身の明朝体活字が、モリサワの新しい本文用明朝体のモデルになった。新しい書体の名称は、森川龍文堂の「龍」と明朝体の「明」から、なじみやすく「リュウミン」とした。
リュウミンは、いわば戦前の活字の文字が写植の新しい文字として生まれ変わった書体といえる。

試験文字盤でリサーチ

彫刻刀の冴えが、現在のリュウミンファミリーのエレメントにも活きている。

リュウミンの開発は、モリサワのタイプデザイナーが新体明朝の見本帳を元に文字を書き起こしていく形で始まった。
1971年に完成した第一試験文字盤は、かなり新体明朝に近いものだったという。活字に特徴的な、彫刻刀で彫ったハライや点のシャープな形状は、現在のリュウミンにも活きている。

写植機は文字盤にある文字をレンズを通して印画紙に焼きつける。レンズの操作・変更によって、文字の拡大・縮小や、長体・平体・斜体化などを行える。新しいタイポグラフィの表現を可能にした。

第一試験文字盤と、続く第二試験文字盤(1977年)は、それぞれ文字盤自体を多くの写植業者に試用してもらい、意見を収集した。モリサワが書体についての大規模なリサーチを行ったのはこれが初めてだった。新しい本文組み書体を何としても成功させたいという意気込みがうかがえる。
試用した写植業者からの意見を受けて、タイプデザイナーが文字に見直し・修整を加えた。修整といっても、当時は現在のように文字がデジタルデータ化されているわけではないから、原則として書き直しである。
書いては文字盤化し、写植業者の意見を集めて……ということを繰り返して、デザインはブラッシュアップされていった。新体明朝を元にして開発が始まった書体は、何年もかけて見直し・書き直しを重ねながら、モリサワ独自の明朝体リュウミンへと成長していったわけである。

ファミリー化の決断

手動機文字盤のリュウミンファミリー5 ウエイトの完成とともに作成されたポスター(「新古典主義」田中一光 1995)。

当初は、現在で言うリュウミンLのみを発売する予定だった。
時代背景に目を向けると、1974年のオイルショックをきっかけに、“量”の拡大を目指す高度経済成長期が終わりを迎えた。暮らしにおける“質”を求める安定成長期に入り、商品・企業のイメージ戦略がより重視されるようになった。デザインに対する考え方も変わろうとしていた。
ポスターや新聞・雑誌広告には、明朝体を極端に大きく扱うような、新しいスタイルのグラフィックデザインが登場した。文字の大きさが固定されている活字と違い、レンズによって文字の拡大・縮小を自由に行える、写植ならではの表現だ。
もっとも、小級数を前提に設計した細い明朝体を大きく扱っても、必ずしも美しいデザインとはならない。明朝体のウエイトにバリエーションがあったら、という思いは、当時のグラフィックデザイナーにも、モリサワにも共通していた。
タイポグラフィに対する考え方が変わりつつある時代だった。文字に対する時代の要請に、書体メーカーとして応えていくべきだろう――モリサワはリュウミンのファミリー化を決断する。
リュウミンの最初の商品化は1982年。現在のLのウエイトにあたり、新体明朝の太さに準じているが、あらかじめファミリー化を想定したデザインとなっていた。かなについては、現在で言うKL(大がな)とKS(小がな)の2種類が、このとき、すでに登場している。
1985年、1986年にはR、M、B、Hを発売。かなには、筆書のスタイルを活かしたKO(オールドがな)も追加し、第一期のリュウミンファミリーが出揃った。

デジタル化を見据えた修整

リュウミンM(1985・上)と現在のリュウミンM(下)。縦画の終筆部のふくらみをやや抑え、横画には一部直線を取り入れた。また、肩ウロコから縦画に移る部分のアールをエッジに変更している。

1990年代に入ると、デザイン、印刷業界にデジタル化の波が押し寄せた。
1992年発売のEB、Uは手動写植機文字盤を先行して発売したが、開発自体はデジタル環境で行った。
Uというウエイトは極端に太い。従来のリュウミンファミリーをそのまま太くしただけでは、内側の空間がツブれてしまう文字や、見た目のバランスの悪い文字が出てきてしまう。このため、LからUまでの統一感がとれるよう、L~Hのデザインについても見直しを行った。
横画には部分的に直線を入れ、全体にすっきりした印象にまとめた。一方、縦画については微妙なカーブを活かし、やわらかい表情を残している。縦画の終筆部分のふくらみ(活版の刷りの際にインクによって強調された部分)は抑えめにし、活字本来のキレを再現した。
こうしたエレメントの細かな見直しを行いながらも、元になった活字の、彫刻刀で彫った一画ごとの抑揚や味わいを損なわないよう、注意を払っている。また、かなの細部についても、より自然な筆の流れを意識して見直しを行った。
修整を加えたリュウミンファミリーは、1993年以降、PSフォントとして発売され、DTPの普及とともに、明朝の基本書体としての地位を確立した。

リュウミンファミリーの歴史に一貫するもの

現在のリュウミンファミリー。

リュウミンファミリーはモリサワの明朝体の大きな柱であり、現在ではベーシックな明朝体ファミリーとして幅広く用いられている。
一番初めに完成したウエイトであるリュウミンLは、1989年に最初の日本語PostScriptプリンタに搭載され、DTPの先がけにもなった。現在も文字セットの拡張に対応して文字数を増やすなど、使い勝手の充実が進められており、リュウミンファミリーは時代とともに歩んでいる書体といえる。

リュウミンファミリーの歴史を振り返ると、そこには一貫した目標が認められる。個々の文字を均整のとれたものにして長文に流れるような表情を生み、読みやすく、疲れにくくすること。そして、本文組みを基本にしながらも、見出し等にも美しく映える、バランスのよさを実現することだ。
活字のよさを受け継いだリュウミンファミリーは、写植、デジタルフォントと、時代ごとの文字環境に対応しながら改良を重ね、洗練されてきた。本当にベーシックな書体とは、文字の伝統を受け継ぎながら、少しずつ磨かれていくものなのかもしれない。

リュウミンファミリーの歴史